まえがたつからぜんりつせん


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小説『2月』 第3章

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 高校3年の4月、お兄ちゃんは両親に向かって「我侭言って申し訳ありませんが、学びたいことがあるので大学に通わせてください」と頭を下げた。
 あたしと違って小さな頃から頭の良かったお兄ちゃんが、大学進学以外の道を進むなんて想像した事も無かったから、お兄ちゃんのこの態度にあたしはとても驚いた。お父さんもお母さんも、はじめからその気だからお前は気にせず勉強しなさい、希望するなら塾や家庭教師もお願いするからと答えていた。
  だけどお兄ちゃんは独学を決意し、更に大学進学への資金の足しにとアルバイトまで始めてしまった。さすがに心配になった両親が、学費の事は気にしなくていいからバイトは辞めて勉強しなさいと言ったけど、義務教育でもないのに自分の勝手で迷惑はかけたくないからと、バイトを続ける事と受験校を地元の大学1本に絞る事とを宣言した。

 そういえば、お兄ちゃんは高校受験の時も、担任の先生の強い勧めを押し切り、県内一と謳われた高校への受験を取り止めて、そこより2ランク下になる今の高校の特待推薦枠に入ったのだった。
 そこの特待推薦は、進学校ではあるが一流とは言い切れない現状況を打破するため、一流大学進学率を少しでも上げて入学希望者を増やそうと考えて作られたクラスで、合格者はなんと交通費以外の学費が全て無料になる。その代わり毎年進級試験が行われ、成績の下がったものは容赦なく普通クラスへ落とされるという過酷な制度だ。
 あの時は、そういったストイックな姿勢を貫くお兄ちゃんを素直にカッコいいと思えたし、自分もそれに続いて、お兄ちゃんの妹に相応しいと言われたいと頑張る事ができた。(結局叶わなかったけど)
  でもこんな事が2度も続くと、鈍いあたしでもさすがに不安になる。もしかして、あたしが知らないだけでうちって結構苦しいんだろうか。

  お金の事を両親に聞くのは気が引けたから、直接お兄ちゃんに聞くことにした。あたしの話を聞いたお兄ちゃんは、そんな馬鹿なと笑い飛ばして、これは自分の意思で行っているだけだから、お前が心配するような事は何もないよと、いつものようにあたしの髪を優しく撫でてくれた。
  普段だったら、これで心配事なんか綺麗に吹き飛んで笑顔になれるのに。あたしの心は深く沈んでいくばかりだった。
  小さな頃からお兄ちゃんは欲が無いと言うか、自分の欲しい物に対して他人の手を借りたがらない所がある。
 いつも黙って努力するお兄ちゃんをあたしは尊敬してたし憧れてたけど、あたしだってもう今年で17歳になる。少しはお兄ちゃんの支えになれる年齢になっている筈だ。
  いつまでも顔を上げないあたしに、お兄ちゃんの手が止まった。しまった、と思ったけど、どうしても笑顔を作る事ができない。お兄ちゃんはあたしの頭の上から手をそっと引くと、余計な心配かけたならごめんな、と言って自分の部屋に戻って行った。あたしは誤解を解きたくて部屋のドアに手をかけた。けど駄目。ただ口元が歪むばかりの今の表情じゃ、お兄ちゃんの前に出られない。こんな大事な時に笑顔のひとつも作ってあげられないあたしは、なんて子供なんだろう。

  それからしばらくお兄ちゃんは、朝は補習授業、夕方はバイト、夜は自室で勉強という具合で、同じ家にいるのに殆ど顔を合わせない日が続いた。独りでいる間、お兄ちゃんに何かしてあげられないかずっと考えてたけど、結局静かに邪魔しないでいる事と、月並みにお守りを贈るくらいの事しか考え付かなかった。
  だけど、あれからしばらく話してなかったせいで気後れしてしまって、渡すことが出来ずに試験当日になってしまった。あたしは早起きして、お兄ちゃんが寝ている間にこっそり渡す事に決めた。

 お兄ちゃんの部屋に入るのも久し振りだ。あたしは用意したお守りを枕元に置こうと伸ばしかけた手を止めて、お兄ちゃんの顔を覗き込んだ。
 何だか疲れてるみたい。昨晩は本番前だからと、いつもより早く寝ていたみたいだけど……。長い間見ることの無かったお兄ちゃんの寝顔は、物置の隅に追いやられたマネキンのように生気が感じられなかった。
 気になって顔を近づけると、お兄ちゃんの片眉がかすかに動いた。いけない。息がかかった? 起こしちゃったかも。咄嗟に顔を上げようとしたあたしの巻毛がお兄ちゃんの額にかかる。

  あ、と思った時にはお兄ちゃんの腕があたしの背中に廻っていて、頬と頬がぶつかった。
  瞬間吸い込んでしまったお兄ちゃんの匂いで頭がくらくらする。痛いほど強い力。――呼吸。呼吸ってどうやるんだっけ? 精神と肉体が離れちゃったみたいに、身体が全然動かない。それなのに感覚だけは鋭敏で――……ああ、真冬にしては薄いパジャマの肌触りと、その向こう側にある硬い筋肉の質感。細長い見た目からは想像できない厚みのある胸板は、大きく上下して荒い息を生みだし、あたしの長い巻き毛を揺らす。あたしより少し熱めのお兄ちゃんの体温からひんやりと感じる、これは汗? それとも私の顔が火照っているせい? 耳元でお兄ちゃんが何か呟いたけど、耳に流れる血流の音が煩くて良く聞き取れない。

  しばらく、数秒、ほんの一瞬かもしれない。覚醒したお兄ちゃんにあたしは思い切り突き飛ばされた。長い腕が伸びる分だけ離される身体と大きく開かれていく瞳。指の先から伝わる熱で、胸に鋭い痛みが走った。
  何か思うより先に、部屋を飛び出してしまった。いけない、今日は受験の日なのに。早く戻って謝らないといけないのに。受験頑張ってねって笑顔で送り出してあげないといけないのに。あんな表情のお兄ちゃんは始めて見た。あの表情は――
  あの表情は私が傷ついた事に傷ついた顔だ。違うのに。そんなんじゃないのに。

  いつまで経っても笑えない。あたしは駄目な妹だ。渡しそびれたお守りを握り締めて、主のいなくなった部屋で幼い日の事を思い出す。もう近所の野良犬もクラスの悪ガキもいないのに、あたしは何を泣いているんだろう。朝のお兄ちゃんの表情が、焼印となってあたしの胸にいつまでもじりじりと焦げた匂いを放っている。




  その年、お兄ちゃんは受験に失敗した。

>『2月』第4章

小説『2月』 第2章


『2月』第1章<


 私が部長と出会ったのは、入学して初めての雨の日でした。

 元々人見知りの性格が災いし早々にクラスの友人作りに失敗した私は、昼休みはもっぱら屋上で空を見上げながら読書をして過ごしていました。一人で過ごすことも本を読むことも嫌いではありませんし、窓枠に切り取られることの無い景色を独り占めできる優越感が、益々私を教室から遠ざけていたのです。
  しかし、流石の私も雨に打たれながら昼食を摂る気にはなれません。かといって今から教室に戻っても浮くだけだろうし……

少し考えれば簡単に予測できた事態に溜息をついて、私は屋上から続く階段の踊り場に腰を下ろしました。
  もういっそ、ここで食べてしまおうかな。階段の下は特別教室が続くばかりで人が来るとは考えにくいし、壁をすり抜け微かに反響しあう雨音に包まれて読書をするのも悪くないかもしれない――。そう思い直してお弁当の包みを広げていると、右耳にがらりと大きな音が響いて、足元に長身の男の人が現れました。
  白衣を着ていたので咄嗟に先生だと思いました。ひどく慌てた様子だったし、私もこんな所でお弁当を広げている恥ずかしさがあって、すぐに立ち上がって横に避けたのですが、男性は2.3歩登りかけた階段をまた引き返して、すみませんがちょっと手伝って貰えませんかと、丁寧に私に頼んできました。

  屋上に上がると普段は見かけない箱が5.6箱置いてありました。近づいてよく見るとそれは水槽で、中には大きな…………蛙が入っていました。
  好きとか嫌いとか以前に、こんなに大きな蛙なんて見た事がありません。硬直してしまった私に気付いた男性は深々と頭を下げ、私を生物室へ招き入れると、濡れてしまった私の為にタオルと紅茶を出してくれました。

  結局全ての水槽を自分で運び終えた男性は、改めて私に謝ってきました。今日の実験で使う蛙に、せめて最期の雨を感じさせてやりたかったのだそうです。しかし思ったよりも雨足が強くなったので、水槽内で溺れる前に慌運び込もうとしたところへ私が居合わせた、という話でした。
  普通の女性は蛙は苦手ですよね、と更に恐縮されて居心地が悪くなった私は、こちらこそ先生のお役に立てずに申し訳ありません、とカップを置いて頭を下げました。
  顔を上げると、男性はきょとんとこちらを見つめています。それはそうでしょう。彼は先生ではなく生物部の部長なのですから。
  改めて自己紹介をし合うと部長はくすくす笑って、自分も私を先輩だと思っていたからおあいこだと告白されました。確かに入学早々あんなところでお弁当を広げようだなんて普通の1年生は思わないし、同級生なら大抵の生徒の顔は見知っているのでしょう。無駄に緊張しちゃったよ、と話す素振りには抜けきらない少年らしさが残っていて、先生と誤解するなんて失礼だったかと心の中で密かに謝りながら一緒に笑いました。

  笑ったら室内を伺う余裕も出てきました。そういえばこの学校の生物室に入ったのは今日が初めてです。入った時には気付きませんでしたが、この教室は私が記憶している一般的な生物室とは違った柔らかい雰囲気がします。最初はお茶のせいかと思ったのですが、よく見ると窓際にはプランターが並んでいるし、壁には蝶や花の写真がたくさん飾られていました。(勿論馴染みの気味悪いあれこれもありましたが)
  その一番奥に、一回り小さいのですが写真ではなく絵が飾られていました。小さな蝶の群れが水面にたくさん浮かんでいる絵。その羽は綺麗な薄水色で、まるで水面から産まれ出たように見えました。そう話すと部長は、君にはそう見えるんだ、とまたくすくす笑い出しました。
  今日は久々に笑ったせいでしょうか。さっき会ったばかりの人に心を開き過ぎてしまいました。それでなくても独りあんな場所で本を片手に弁当を広げていたのです。きっと夢見がちな変わり者に見えたに違いありません。後悔と恥ずかしさで血液が逆流するのが分かります。私は揃えた両膝にかかったスカートの端をぎゅっと握って、体が震えるのを悟られないように視線を逸らすと、口を硬く結びました。

  


       妹が好きな蝶なんだ。 
  


  そう言った部長の表情を見ることは出来ませんでしたが、きっと目を細めていたに違いありません。だって部長が妹さんの話をする時はいつもそうやって微笑っているから。だから描いたんだ、と照れもなく話す部長に毒気を抜かれ、私はこの人をもっと知りたいと思うようになったのです。
  


  
  失礼します、と静かにドアから入って来たセーラー服に、私は息を呑みました。
  150センチに満たない華奢な身体。栗色でふわふわのゆるい巻毛を腰まで垂らして、ほんのり紅く染まった丸顔に似合う薔薇色の唇と長い睫毛……。長身・面長で髪も瞳も真っ黒な、凛とした雰囲気のする部長とは似ても似つきません。それでいて彼の左に納まったさまは1枚の絵のようにしっくりきて、部長から前もって聞いていなければ、私は確実に彼女を『彼女』だと誤解していた事でしょう。
  しかし、席についた妹さんは終始悲しそう、というか心ここにあらずと言った感じで、しきりに胸元のタイを弄んでいました。一体何があったのでしょうか。 笑ったらきっと、もっと可愛いと思うのに……
  それでもカモミールティには口を付けてくれたので、ほっとして何か他の話題はないかと目を泳がせていると、部長が彼女に自分で作成したレポートを見せました。
  壁や机に飾った一般向けの展示物と違って、それは大会用の専門的なデータだったのですが、彼女は眉間に皺を寄せて、必死に目を走らせていました。私にはその姿が字面をひとつも溢すまいとして眉間で脳を押さえているように見えて、思わず微笑ってしまいました。ふと見れば隣に座った部長も目を細めています。案外意地が悪いところもあるんだな、と思いつつも彼女のひたむきさが可愛らしく、私は止める気になれませんでした。
  
  そのまま1時間は格闘していたでしょうか。妹さんはやっと顔を上げ、すっかり凝り固まった眉間のあたりを白い指先で何度か撫でました。
  頑張った妹さんに何かしてあげたくなって、新しい紅茶を入れようと私が席を立ちかけたその時、
 「ああ」
  突然指差した彼女の視線の先には、例の蝶の絵が飾られていました。丁度私が座っていたせいで彼女からは死角になっていたようです。ねぇ、知ってる? と彼女は私に視線を合わせました。
 「あの蝶ってね、蝶になりたてのころは白い羽をしているの。皆で海を渡るうちに、空や海の色素を取り込んで羽の色が変わるのよ。波に止まれば瑠璃色に輝くし、夜は星屑色に光るんだって。だからいくら捕まえても海で見たような色にはならないの」
  お兄ちゃんが言ったの。と、突拍子も無い御伽噺に呆けている私の耳元に更に爆弾を投下した妹さんは
「結構、乙女チックでしょ?」
と、目を細めて微笑ったのでした。
   

  


  結局、その日彼女の笑った顔が見れたのはそれ1回きりでした。考えてみれば、ハーブのプランターも花の写真も蝶の絵も、全て部長が揃えたものです。でも私には、それら『乙女チック』な品々と部長の姿がどうしても上手く結びつきませんでした。唯一しっくり感じたのは、あの時左下にあった栗色の――

  卒業していく部長(今は元・部長ですが)の私物を纏めていたら何となくそれを確かめたくなって、贈るつもりの無かったチョコを渡す事にしました。街の乙女チック満載の雰囲気にあてられたのかもしれません。お店を廻って、1番可愛らしい雰囲気のチョコレートを白いレースとピンクのリボンで包んで、ついでにガーベラまで添えて。私の思いつく限りの乙女心を詰め込んだつもりでした。
  既に自由登校になっている部長を生物室に呼び出して、彼の集めた『乙女チック』と共に手渡すと、困ったように眉根を寄せて、君はもう知っていると思ったけどと言いながら、チョコだけを私の前に返してきました。
  それではこれは私の可愛いライバルに渡してくださいと渡し返すと、彼は一瞬目を大きく開いた後、そうだね、きっと喜ぶよと、いつものように目を細めました。その笑顔が余りに予想通りだったので、何だか嬉しくなって一緒に笑いました。笑いながら泣きました。

>『2月』第3章 

小説『2月』 第1章

 そもそもあたしにとって兄弟というものは仲が良いのが当たり前だったし、現にあたしとお兄ちゃんは誰から見ても仲の良い兄妹だった。
 頭が良くて優しくて、いつも図鑑や難しい本をスラスラと読んでいたお兄ちゃん。あたしはと言えば、鈍くさくて泣き虫で、何も無いところで転んでは大泣きする近所でも評判のおみそ。
 そんなあたしの手を引いて、海をわたる蝶の羽の色や、ユニコーンの角で作った薬の効き目なんかの話を泣き止むまでしてくれた。お兄ちゃんがいれば近所の野良犬もクラスの悪ガキも怖くなかった。1つしか違わないなんて、ううん、同じ血を分けた兄妹とはとても思えない。あたしにとってお兄ちゃんは、ずっと憧れだったし理想だったのだ。

 だから高校受験だってすごーく頑張った。全ての受験生にとって学校なんて灰色だろうけど、あたしにとって、お兄ちゃんがいない中学生活はむしろ真っ黒だった。早く卒業してお兄ちゃんと一緒の校舎を歩きたい。何よりお兄ちゃんに釣り合う妹になりたかった。
 だけど、お兄ちゃんがランクを落として入った高校の特待推薦基準にあたしは届かなかった。
 あれからあたしも大きくなって、近所の野良犬もクラスの悪ガキも怖くなくなった。そうして段々、お兄ちゃんに手を引いてもらう事もなくなった。だから、自分では成長したつもりだったのに……。あたしが大きくなった分、お兄ちゃんだって大きくなる。いつも隣にあった筈のお兄ちゃんの瞳は、今では相当上を見なければ探せない。
 何でいつまで経っても鈍くさいのは変わらないんだろう、と落ち込んだけど、その高校の近所の女子高になんとか滑り込む事が出来た。これでお兄ちゃんと一緒にもう2年は歩く事が出来る。行き帰りの間のわずかな時間だけど、同じ家を出て同じ家に帰って来れるのは密かな自慢だった。頭の上から降り注ぐ低音は耳に心地良かったし、柔らかく紡がれる言葉にいつもあたしはわくわくした。


  とてもとても幸せだったから忘れていたのだ。お兄ちゃんが理想の兄だと言うことを。

  お兄ちゃんは、高校の文化祭にあたしを招待してくれた。お兄ちゃんのクラスは、特待推薦コースということもあって文化祭への熱意は低く、参加もしていない。部活で研究発表をやる程度だから、その会場で待ち合わせて一緒に見て廻らないかと言う話だった。あたしがお兄ちゃんの誘いを断る訳が無い。それにお兄ちゃんと同じ校舎を歩く事ができる。
  前日は興奮して眠れなかった。それが災いの元だったと思う。うっかり制服を着て行ってしまったのだ。文化祭なので近所に建っているあたしの学校の生徒もたくさん来てるから、制服姿のあたしが悪目立ちすることはない。だけどお兄ちゃんの高校は私服なのだ。折角一緒の校舎を歩けるというのに、これではいつもと変わらない他校の生徒のままだ。窓に映る臙脂色のタイにため息をついて、あたしは生物室のドアを開けた。

  小さな頃から虫や動物が好きなお兄ちゃんは、生物部に所属している。生物室ってひんやりして薬品臭くて、あたしはあんまり好きじゃない。でもこの部屋に飾られた展示物やレポートの数々からは、この部屋には似つかわしくないあったかくて優しい色が見える。それから何か穏やかな香り……
 「せっかくたくさんの方に見ていただける機会だから、親しみやすい題材がいいだろうって、部長――あ、お兄さんが。それで今年はハーブの研究にしたんです」
  そう言いつつカモミールティを出してくれた娘を見て気付いてしまった。彼女はこの学校のあたしだ。違うのはお兄ちゃんと血が繋がっていない事。
 ずっとそばにいたのに。ずっと努力していたのに。ほんのちょっとの間、平日の数時間を一緒に過ごしていたくらいで、お兄ちゃんを知った気にならないでよ。ずっとそれが当たり前だったみたいに、簡単にお兄ちゃんの隣に立たないでよ。お兄ちゃんの学園生活にちょっと関わっていただけのあなたが、お兄ちゃんについて私に語らないで! あの時受かってさえいたら、そこにいたのはあなたじゃなくてあたしなんだから! 絶対に!
 ちょっと頭が良かったからって、ちょっと他人だったからって、世界中から認められたみたいな顔してお兄ちゃんと笑いあったりしないで!!!!

  ああ、今日はお兄ちゃんと文化祭を満喫するつもりだったのに。廊下を歩く度に揺れる臙脂色のタイ。髪に残ったカモミールの香り。理解できなかったレポートの中身。さわさわと響く人のざわめき。全てにいらいらして、降り注いでいた筈の低音もあたしの耳には届かなかった。



  結局あたしは自分に負けているのかもしれない。だってあの娘はお兄ちゃんと同じ学校に行って、研究内容も理解して、美味しいお茶も淹れられる。でも好きと言う気持ちは、一緒にいたいと言う気持ちだけは負けたくない。妹だけど。ううん、妹だからこそ。

  その年のバレンタイン、生まれて始めてチョコを作った。料理が苦手というのもあるけど、お兄ちゃんへチョコを渡すという行為が恥ずかしくて出来なかったのだ。家族への義理チョコぐらいで何が恥ずかしいの? と友人には笑われたが、今ならその理由も分かる。

  一晩かかって得た収穫は、チョコレートはただ湯せんにかけるだけでは駄目だと言う事だった。どうしてもチョコにむらが出来る。最初の板チョコと同じ綺麗なこげ茶色にならない。チョコを綺麗に溶かすには、微妙な温度調節が重要で、恥ずかしいことに、あたしはそれをお兄ちゃんから教わった。
  いよいよ好きな人が出来たのかと聞かれたのが悔しくて、何度目かの溶かしかけのチョコを無理矢理口に突っ込んでやった。乱暴な渡し方だなぁ、とお兄ちゃんは笑って食べて、その後、来年はもういらないからと言われた。
  そんなに不味かったなら残して良かったのに。いつまで経っても直らない自分の不器用さ加減に、情けなくなって下を向いた。
「そうじゃなくて――」
お兄ちゃんの指が頬を掠める。


       妹から貰うのは哀しいんだよ。


  部屋に充満したチョコの匂いで、低音が耳元に降りてくるのに気付かなかった。きっとあたしの体中にも、お兄ちゃんの舌と同じ匂いがしているのだろう。

>『2月』第2章


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PNはサークル名と同じ"まえぜん"。
子育てライフ満喫しながら、まったり活動再開妄想中^ ^;



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