そもそもあたしにとって兄弟というものは仲が良いのが当たり前だったし、現にあたしとお兄ちゃんは誰から見ても仲の良い兄妹だった。
 頭が良くて優しくて、いつも図鑑や難しい本をスラスラと読んでいたお兄ちゃん。あたしはと言えば、鈍くさくて泣き虫で、何も無いところで転んでは大泣きする近所でも評判のおみそ。
 そんなあたしの手を引いて、海をわたる蝶の羽の色や、ユニコーンの角で作った薬の効き目なんかの話を泣き止むまでしてくれた。お兄ちゃんがいれば近所の野良犬もクラスの悪ガキも怖くなかった。1つしか違わないなんて、ううん、同じ血を分けた兄妹とはとても思えない。あたしにとってお兄ちゃんは、ずっと憧れだったし理想だったのだ。

 だから高校受験だってすごーく頑張った。全ての受験生にとって学校なんて灰色だろうけど、あたしにとって、お兄ちゃんがいない中学生活はむしろ真っ黒だった。早く卒業してお兄ちゃんと一緒の校舎を歩きたい。何よりお兄ちゃんに釣り合う妹になりたかった。
 だけど、お兄ちゃんがランクを落として入った高校の特待推薦基準にあたしは届かなかった。
 あれからあたしも大きくなって、近所の野良犬もクラスの悪ガキも怖くなくなった。そうして段々、お兄ちゃんに手を引いてもらう事もなくなった。だから、自分では成長したつもりだったのに……。あたしが大きくなった分、お兄ちゃんだって大きくなる。いつも隣にあった筈のお兄ちゃんの瞳は、今では相当上を見なければ探せない。
 何でいつまで経っても鈍くさいのは変わらないんだろう、と落ち込んだけど、その高校の近所の女子高になんとか滑り込む事が出来た。これでお兄ちゃんと一緒にもう2年は歩く事が出来る。行き帰りの間のわずかな時間だけど、同じ家を出て同じ家に帰って来れるのは密かな自慢だった。頭の上から降り注ぐ低音は耳に心地良かったし、柔らかく紡がれる言葉にいつもあたしはわくわくした。


  とてもとても幸せだったから忘れていたのだ。お兄ちゃんが理想の兄だと言うことを。

  お兄ちゃんは、高校の文化祭にあたしを招待してくれた。お兄ちゃんのクラスは、特待推薦コースということもあって文化祭への熱意は低く、参加もしていない。部活で研究発表をやる程度だから、その会場で待ち合わせて一緒に見て廻らないかと言う話だった。あたしがお兄ちゃんの誘いを断る訳が無い。それにお兄ちゃんと同じ校舎を歩く事ができる。
  前日は興奮して眠れなかった。それが災いの元だったと思う。うっかり制服を着て行ってしまったのだ。文化祭なので近所に建っているあたしの学校の生徒もたくさん来てるから、制服姿のあたしが悪目立ちすることはない。だけどお兄ちゃんの高校は私服なのだ。折角一緒の校舎を歩けるというのに、これではいつもと変わらない他校の生徒のままだ。窓に映る臙脂色のタイにため息をついて、あたしは生物室のドアを開けた。

  小さな頃から虫や動物が好きなお兄ちゃんは、生物部に所属している。生物室ってひんやりして薬品臭くて、あたしはあんまり好きじゃない。でもこの部屋に飾られた展示物やレポートの数々からは、この部屋には似つかわしくないあったかくて優しい色が見える。それから何か穏やかな香り……
 「せっかくたくさんの方に見ていただける機会だから、親しみやすい題材がいいだろうって、部長――あ、お兄さんが。それで今年はハーブの研究にしたんです」
  そう言いつつカモミールティを出してくれた娘を見て気付いてしまった。彼女はこの学校のあたしだ。違うのはお兄ちゃんと血が繋がっていない事。
 ずっとそばにいたのに。ずっと努力していたのに。ほんのちょっとの間、平日の数時間を一緒に過ごしていたくらいで、お兄ちゃんを知った気にならないでよ。ずっとそれが当たり前だったみたいに、簡単にお兄ちゃんの隣に立たないでよ。お兄ちゃんの学園生活にちょっと関わっていただけのあなたが、お兄ちゃんについて私に語らないで! あの時受かってさえいたら、そこにいたのはあなたじゃなくてあたしなんだから! 絶対に!
 ちょっと頭が良かったからって、ちょっと他人だったからって、世界中から認められたみたいな顔してお兄ちゃんと笑いあったりしないで!!!!

  ああ、今日はお兄ちゃんと文化祭を満喫するつもりだったのに。廊下を歩く度に揺れる臙脂色のタイ。髪に残ったカモミールの香り。理解できなかったレポートの中身。さわさわと響く人のざわめき。全てにいらいらして、降り注いでいた筈の低音もあたしの耳には届かなかった。



  結局あたしは自分に負けているのかもしれない。だってあの娘はお兄ちゃんと同じ学校に行って、研究内容も理解して、美味しいお茶も淹れられる。でも好きと言う気持ちは、一緒にいたいと言う気持ちだけは負けたくない。妹だけど。ううん、妹だからこそ。

  その年のバレンタイン、生まれて始めてチョコを作った。料理が苦手というのもあるけど、お兄ちゃんへチョコを渡すという行為が恥ずかしくて出来なかったのだ。家族への義理チョコぐらいで何が恥ずかしいの? と友人には笑われたが、今ならその理由も分かる。

  一晩かかって得た収穫は、チョコレートはただ湯せんにかけるだけでは駄目だと言う事だった。どうしてもチョコにむらが出来る。最初の板チョコと同じ綺麗なこげ茶色にならない。チョコを綺麗に溶かすには、微妙な温度調節が重要で、恥ずかしいことに、あたしはそれをお兄ちゃんから教わった。
  いよいよ好きな人が出来たのかと聞かれたのが悔しくて、何度目かの溶かしかけのチョコを無理矢理口に突っ込んでやった。乱暴な渡し方だなぁ、とお兄ちゃんは笑って食べて、その後、来年はもういらないからと言われた。
  そんなに不味かったなら残して良かったのに。いつまで経っても直らない自分の不器用さ加減に、情けなくなって下を向いた。
「そうじゃなくて――」
お兄ちゃんの指が頬を掠める。


       妹から貰うのは哀しいんだよ。


  部屋に充満したチョコの匂いで、低音が耳元に降りてくるのに気付かなかった。きっとあたしの体中にも、お兄ちゃんの舌と同じ匂いがしているのだろう。

>『2月』第2章