『2月』第1章<


 私が部長と出会ったのは、入学して初めての雨の日でした。

 元々人見知りの性格が災いし早々にクラスの友人作りに失敗した私は、昼休みはもっぱら屋上で空を見上げながら読書をして過ごしていました。一人で過ごすことも本を読むことも嫌いではありませんし、窓枠に切り取られることの無い景色を独り占めできる優越感が、益々私を教室から遠ざけていたのです。
  しかし、流石の私も雨に打たれながら昼食を摂る気にはなれません。かといって今から教室に戻っても浮くだけだろうし……

少し考えれば簡単に予測できた事態に溜息をついて、私は屋上から続く階段の踊り場に腰を下ろしました。
  もういっそ、ここで食べてしまおうかな。階段の下は特別教室が続くばかりで人が来るとは考えにくいし、壁をすり抜け微かに反響しあう雨音に包まれて読書をするのも悪くないかもしれない――。そう思い直してお弁当の包みを広げていると、右耳にがらりと大きな音が響いて、足元に長身の男の人が現れました。
  白衣を着ていたので咄嗟に先生だと思いました。ひどく慌てた様子だったし、私もこんな所でお弁当を広げている恥ずかしさがあって、すぐに立ち上がって横に避けたのですが、男性は2.3歩登りかけた階段をまた引き返して、すみませんがちょっと手伝って貰えませんかと、丁寧に私に頼んできました。

  屋上に上がると普段は見かけない箱が5.6箱置いてありました。近づいてよく見るとそれは水槽で、中には大きな…………蛙が入っていました。
  好きとか嫌いとか以前に、こんなに大きな蛙なんて見た事がありません。硬直してしまった私に気付いた男性は深々と頭を下げ、私を生物室へ招き入れると、濡れてしまった私の為にタオルと紅茶を出してくれました。

  結局全ての水槽を自分で運び終えた男性は、改めて私に謝ってきました。今日の実験で使う蛙に、せめて最期の雨を感じさせてやりたかったのだそうです。しかし思ったよりも雨足が強くなったので、水槽内で溺れる前に慌運び込もうとしたところへ私が居合わせた、という話でした。
  普通の女性は蛙は苦手ですよね、と更に恐縮されて居心地が悪くなった私は、こちらこそ先生のお役に立てずに申し訳ありません、とカップを置いて頭を下げました。
  顔を上げると、男性はきょとんとこちらを見つめています。それはそうでしょう。彼は先生ではなく生物部の部長なのですから。
  改めて自己紹介をし合うと部長はくすくす笑って、自分も私を先輩だと思っていたからおあいこだと告白されました。確かに入学早々あんなところでお弁当を広げようだなんて普通の1年生は思わないし、同級生なら大抵の生徒の顔は見知っているのでしょう。無駄に緊張しちゃったよ、と話す素振りには抜けきらない少年らしさが残っていて、先生と誤解するなんて失礼だったかと心の中で密かに謝りながら一緒に笑いました。

  笑ったら室内を伺う余裕も出てきました。そういえばこの学校の生物室に入ったのは今日が初めてです。入った時には気付きませんでしたが、この教室は私が記憶している一般的な生物室とは違った柔らかい雰囲気がします。最初はお茶のせいかと思ったのですが、よく見ると窓際にはプランターが並んでいるし、壁には蝶や花の写真がたくさん飾られていました。(勿論馴染みの気味悪いあれこれもありましたが)
  その一番奥に、一回り小さいのですが写真ではなく絵が飾られていました。小さな蝶の群れが水面にたくさん浮かんでいる絵。その羽は綺麗な薄水色で、まるで水面から産まれ出たように見えました。そう話すと部長は、君にはそう見えるんだ、とまたくすくす笑い出しました。
  今日は久々に笑ったせいでしょうか。さっき会ったばかりの人に心を開き過ぎてしまいました。それでなくても独りあんな場所で本を片手に弁当を広げていたのです。きっと夢見がちな変わり者に見えたに違いありません。後悔と恥ずかしさで血液が逆流するのが分かります。私は揃えた両膝にかかったスカートの端をぎゅっと握って、体が震えるのを悟られないように視線を逸らすと、口を硬く結びました。

  


       妹が好きな蝶なんだ。 
  


  そう言った部長の表情を見ることは出来ませんでしたが、きっと目を細めていたに違いありません。だって部長が妹さんの話をする時はいつもそうやって微笑っているから。だから描いたんだ、と照れもなく話す部長に毒気を抜かれ、私はこの人をもっと知りたいと思うようになったのです。
  


  
  失礼します、と静かにドアから入って来たセーラー服に、私は息を呑みました。
  150センチに満たない華奢な身体。栗色でふわふわのゆるい巻毛を腰まで垂らして、ほんのり紅く染まった丸顔に似合う薔薇色の唇と長い睫毛……。長身・面長で髪も瞳も真っ黒な、凛とした雰囲気のする部長とは似ても似つきません。それでいて彼の左に納まったさまは1枚の絵のようにしっくりきて、部長から前もって聞いていなければ、私は確実に彼女を『彼女』だと誤解していた事でしょう。
  しかし、席についた妹さんは終始悲しそう、というか心ここにあらずと言った感じで、しきりに胸元のタイを弄んでいました。一体何があったのでしょうか。 笑ったらきっと、もっと可愛いと思うのに……
  それでもカモミールティには口を付けてくれたので、ほっとして何か他の話題はないかと目を泳がせていると、部長が彼女に自分で作成したレポートを見せました。
  壁や机に飾った一般向けの展示物と違って、それは大会用の専門的なデータだったのですが、彼女は眉間に皺を寄せて、必死に目を走らせていました。私にはその姿が字面をひとつも溢すまいとして眉間で脳を押さえているように見えて、思わず微笑ってしまいました。ふと見れば隣に座った部長も目を細めています。案外意地が悪いところもあるんだな、と思いつつも彼女のひたむきさが可愛らしく、私は止める気になれませんでした。
  
  そのまま1時間は格闘していたでしょうか。妹さんはやっと顔を上げ、すっかり凝り固まった眉間のあたりを白い指先で何度か撫でました。
  頑張った妹さんに何かしてあげたくなって、新しい紅茶を入れようと私が席を立ちかけたその時、
 「ああ」
  突然指差した彼女の視線の先には、例の蝶の絵が飾られていました。丁度私が座っていたせいで彼女からは死角になっていたようです。ねぇ、知ってる? と彼女は私に視線を合わせました。
 「あの蝶ってね、蝶になりたてのころは白い羽をしているの。皆で海を渡るうちに、空や海の色素を取り込んで羽の色が変わるのよ。波に止まれば瑠璃色に輝くし、夜は星屑色に光るんだって。だからいくら捕まえても海で見たような色にはならないの」
  お兄ちゃんが言ったの。と、突拍子も無い御伽噺に呆けている私の耳元に更に爆弾を投下した妹さんは
「結構、乙女チックでしょ?」
と、目を細めて微笑ったのでした。
   

  


  結局、その日彼女の笑った顔が見れたのはそれ1回きりでした。考えてみれば、ハーブのプランターも花の写真も蝶の絵も、全て部長が揃えたものです。でも私には、それら『乙女チック』な品々と部長の姿がどうしても上手く結びつきませんでした。唯一しっくり感じたのは、あの時左下にあった栗色の――

  卒業していく部長(今は元・部長ですが)の私物を纏めていたら何となくそれを確かめたくなって、贈るつもりの無かったチョコを渡す事にしました。街の乙女チック満載の雰囲気にあてられたのかもしれません。お店を廻って、1番可愛らしい雰囲気のチョコレートを白いレースとピンクのリボンで包んで、ついでにガーベラまで添えて。私の思いつく限りの乙女心を詰め込んだつもりでした。
  既に自由登校になっている部長を生物室に呼び出して、彼の集めた『乙女チック』と共に手渡すと、困ったように眉根を寄せて、君はもう知っていると思ったけどと言いながら、チョコだけを私の前に返してきました。
  それではこれは私の可愛いライバルに渡してくださいと渡し返すと、彼は一瞬目を大きく開いた後、そうだね、きっと喜ぶよと、いつものように目を細めました。その笑顔が余りに予想通りだったので、何だか嬉しくなって一緒に笑いました。笑いながら泣きました。

>『2月』第3章