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 高校3年の4月、お兄ちゃんは両親に向かって「我侭言って申し訳ありませんが、学びたいことがあるので大学に通わせてください」と頭を下げた。
 あたしと違って小さな頃から頭の良かったお兄ちゃんが、大学進学以外の道を進むなんて想像した事も無かったから、お兄ちゃんのこの態度にあたしはとても驚いた。お父さんもお母さんも、はじめからその気だからお前は気にせず勉強しなさい、希望するなら塾や家庭教師もお願いするからと答えていた。
  だけどお兄ちゃんは独学を決意し、更に大学進学への資金の足しにとアルバイトまで始めてしまった。さすがに心配になった両親が、学費の事は気にしなくていいからバイトは辞めて勉強しなさいと言ったけど、義務教育でもないのに自分の勝手で迷惑はかけたくないからと、バイトを続ける事と受験校を地元の大学1本に絞る事とを宣言した。

 そういえば、お兄ちゃんは高校受験の時も、担任の先生の強い勧めを押し切り、県内一と謳われた高校への受験を取り止めて、そこより2ランク下になる今の高校の特待推薦枠に入ったのだった。
 そこの特待推薦は、進学校ではあるが一流とは言い切れない現状況を打破するため、一流大学進学率を少しでも上げて入学希望者を増やそうと考えて作られたクラスで、合格者はなんと交通費以外の学費が全て無料になる。その代わり毎年進級試験が行われ、成績の下がったものは容赦なく普通クラスへ落とされるという過酷な制度だ。
 あの時は、そういったストイックな姿勢を貫くお兄ちゃんを素直にカッコいいと思えたし、自分もそれに続いて、お兄ちゃんの妹に相応しいと言われたいと頑張る事ができた。(結局叶わなかったけど)
  でもこんな事が2度も続くと、鈍いあたしでもさすがに不安になる。もしかして、あたしが知らないだけでうちって結構苦しいんだろうか。

  お金の事を両親に聞くのは気が引けたから、直接お兄ちゃんに聞くことにした。あたしの話を聞いたお兄ちゃんは、そんな馬鹿なと笑い飛ばして、これは自分の意思で行っているだけだから、お前が心配するような事は何もないよと、いつものようにあたしの髪を優しく撫でてくれた。
  普段だったら、これで心配事なんか綺麗に吹き飛んで笑顔になれるのに。あたしの心は深く沈んでいくばかりだった。
  小さな頃からお兄ちゃんは欲が無いと言うか、自分の欲しい物に対して他人の手を借りたがらない所がある。
 いつも黙って努力するお兄ちゃんをあたしは尊敬してたし憧れてたけど、あたしだってもう今年で17歳になる。少しはお兄ちゃんの支えになれる年齢になっている筈だ。
  いつまでも顔を上げないあたしに、お兄ちゃんの手が止まった。しまった、と思ったけど、どうしても笑顔を作る事ができない。お兄ちゃんはあたしの頭の上から手をそっと引くと、余計な心配かけたならごめんな、と言って自分の部屋に戻って行った。あたしは誤解を解きたくて部屋のドアに手をかけた。けど駄目。ただ口元が歪むばかりの今の表情じゃ、お兄ちゃんの前に出られない。こんな大事な時に笑顔のひとつも作ってあげられないあたしは、なんて子供なんだろう。

  それからしばらくお兄ちゃんは、朝は補習授業、夕方はバイト、夜は自室で勉強という具合で、同じ家にいるのに殆ど顔を合わせない日が続いた。独りでいる間、お兄ちゃんに何かしてあげられないかずっと考えてたけど、結局静かに邪魔しないでいる事と、月並みにお守りを贈るくらいの事しか考え付かなかった。
  だけど、あれからしばらく話してなかったせいで気後れしてしまって、渡すことが出来ずに試験当日になってしまった。あたしは早起きして、お兄ちゃんが寝ている間にこっそり渡す事に決めた。

 お兄ちゃんの部屋に入るのも久し振りだ。あたしは用意したお守りを枕元に置こうと伸ばしかけた手を止めて、お兄ちゃんの顔を覗き込んだ。
 何だか疲れてるみたい。昨晩は本番前だからと、いつもより早く寝ていたみたいだけど……。長い間見ることの無かったお兄ちゃんの寝顔は、物置の隅に追いやられたマネキンのように生気が感じられなかった。
 気になって顔を近づけると、お兄ちゃんの片眉がかすかに動いた。いけない。息がかかった? 起こしちゃったかも。咄嗟に顔を上げようとしたあたしの巻毛がお兄ちゃんの額にかかる。

  あ、と思った時にはお兄ちゃんの腕があたしの背中に廻っていて、頬と頬がぶつかった。
  瞬間吸い込んでしまったお兄ちゃんの匂いで頭がくらくらする。痛いほど強い力。――呼吸。呼吸ってどうやるんだっけ? 精神と肉体が離れちゃったみたいに、身体が全然動かない。それなのに感覚だけは鋭敏で――……ああ、真冬にしては薄いパジャマの肌触りと、その向こう側にある硬い筋肉の質感。細長い見た目からは想像できない厚みのある胸板は、大きく上下して荒い息を生みだし、あたしの長い巻き毛を揺らす。あたしより少し熱めのお兄ちゃんの体温からひんやりと感じる、これは汗? それとも私の顔が火照っているせい? 耳元でお兄ちゃんが何か呟いたけど、耳に流れる血流の音が煩くて良く聞き取れない。

  しばらく、数秒、ほんの一瞬かもしれない。覚醒したお兄ちゃんにあたしは思い切り突き飛ばされた。長い腕が伸びる分だけ離される身体と大きく開かれていく瞳。指の先から伝わる熱で、胸に鋭い痛みが走った。
  何か思うより先に、部屋を飛び出してしまった。いけない、今日は受験の日なのに。早く戻って謝らないといけないのに。受験頑張ってねって笑顔で送り出してあげないといけないのに。あんな表情のお兄ちゃんは始めて見た。あの表情は――
  あの表情は私が傷ついた事に傷ついた顔だ。違うのに。そんなんじゃないのに。

  いつまで経っても笑えない。あたしは駄目な妹だ。渡しそびれたお守りを握り締めて、主のいなくなった部屋で幼い日の事を思い出す。もう近所の野良犬もクラスの悪ガキもいないのに、あたしは何を泣いているんだろう。朝のお兄ちゃんの表情が、焼印となってあたしの胸にいつまでもじりじりと焦げた匂いを放っている。




  その年、お兄ちゃんは受験に失敗した。

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