運命的な出会いなんて、早々落ちてるもんじゃない。人生まだ15年しか生きちゃいないが、これだけ言われ続けりゃ悟りもする。
  はっきり言ってこの15年間モテなかった時期は無かった。放課後の教室、裏庭の木の下、公園のベンチ、下駄箱のラブレター…。もう散々言われた。『運命を感じました』『あなたこそ運命の人だと信じてます』。冗談じゃない。こっちは会話どころか目もあった記憶すらないのに。

  昨日、めでたく中学の卒業式に臨んだ俺は、傲慢な女子の黄色い声にもみくちゃにされた。何だって今時この学校は学ランなんだよ、畜生。結局俺に残されたのは無数の擦り傷とボタンが引きちぎられてボロボロになった元制服の布だけだ。保健室に連れて行って介抱してやろうとか、破れた裾を繕ってやろうとかいう殊勝な女子なんていやしない。所詮奴らは俺をアイドルかペットだと勘違いして騒いでいるのが楽しいだけなんだ。
  その上騒ぎで貰った卒業証書までどこかへ置き忘れてしまった。仕方なく今日、もう二度と歩く事もないと思っていた坂道を歩いている。

 えー、…っと。卒業証書は、式の後に教室で担任から個別で渡されてー、その後、別れの挨拶があって……。謝恩会の間まで一時解散ってなった瞬間には、もう女共に囲まれて身動き取れなくなっちまったから、きっと教室の机の中だ。糞!
  制服は既に着られる状態ではなくなっていたので、仕方なく私服で学校に入る。今の時間は授業中だから後輩達に見られる心配は少ないけど、やっぱりちょっと格好悪い。俺はなるべく人に気付かれぬよう配慮しながら、こっそりと廊下を歩いた。
  ありがたい事に3年の教室は1階にあったので(3年は体力が無いからとか、受験の重圧に負けて飛び降りたりしないようにだとか、まことしやかな噂は流れていたけど真相は知らない)、誰にも会う事なく自分の―― いや、元自分の、か。教室に辿り着く事が出来た。
  生徒が誰もいないため電気の消された1階は、昼だというのに静かで薄暗かった。風に乗って、授業を行う教師の声や合唱する生徒達の声がわずかに聞こえてくる。ついこの間まで俺もこの中にいたんだよなぁ。春の風は心地良く、俺は自分の古巣を独占できる偶然に、今までの怒りを忘れて多少わくわくしながらドアを開けた。

  ……いや、独占じゃなかった。俺の席の隣で誰か寝ている。
  窓際の一番後ろにあたるその席は、確か女子ソフト部のキャプテンをしてた奴だった。しかし、その机に突っ伏している女は、明らかに運動なんかやらなそうな華奢な体格をしている。ていうか、あんな腰まであるようなストレートの髪の女は、このクラスにはいない筈だ。
  どのみちそっちに行かなければならないので、ついでに近づいて顔を覗き込んだ。長い睫毛の下には薄桃色の唇が中途半端に開いて、可愛らしく並んだ歯を覗かせている。完全に熟睡の状態だ。普段の状況だったら俺に会いに来たことも考えられるけど、卒業した今となっては、その可能性も薄いだろう。後輩がこっそりサボりに来てるのか?
  しばらく顔を見つめて考えていたが、ふと唇に何か白い物が落ちた気がした。
 「桜……?」
  何の邪念もなかった。ただ単純に口に何か付いているから取ってやろうと――手を伸ばすとぷにん、とはじき返されて、何かぬるぬるしたものが人差し指に付いた。
  その途端、ぱちりと音がするかのように彼女の瞳が開いた。驚いているからか、思ったよりずっと大きくて黒い。
 「あ、ごめん。起こしちゃった?いや、今、桜が口に――」
  まだ説明の途中だというのに、耳まで真っ赤にした彼女に思い切り突き飛ばされて尻餅をついた。
 「いてっ」
  思わず出てしまった声に、走り出しかけた彼女は勢い良く振り返ると
「ごめんなさい!」
とお辞儀をして、その勢いのまま、またUターンして消えてしまった。
  くるくると回るスカートと一緒にさらりと彼女を彩る髪がとても綺麗で、俺は怒ることも引き止めることも忘れてしまった。

確かに出会いで心がこんなに高揚するのなら、運命だと勘違いしてしまうのも仕方ない。



  家に帰って早速卒業アルバムをめくったが、それらしい黒髪は見つからなかった。やはり後輩だったんだろうか?
  翌日、俺はまた同じ坂道を登っていた。よくよく考えたら今の時期に桜なんてまだ咲いてないじゃないか。指についたのは多分リップクリームで、窓際だったからそれが光って見えたんだ。寝ているところを急に唇に触られて、きっと驚いた事だろう。ていうか俺、あの状況だと完全に痴漢なんじゃないのか?卒業直後にそんな汚名は避けたい。
  3月頭らしい爽やかな風が頬を撫でるのにさえ、いらいらと落ち着かない。なんでこの坂こんなに長いんだ! やけに喉が渇いて張り付く。遅刻寸前のダッシュの時だって、こんなに焦ったりしてなかった。

  ここに居るとは思ってなかったが、一応教室のドアを開けてみる。このクラスの生徒でないことは明白だったし、それより知り合いの後輩に聞いて回った方が確実だ。それでもここから先に覗いてしまったのは何故だろう。やっぱり運命って奴を信じたくなったんだろうか?まさか。
  しかし予想に反して(?)彼女は昨日と同じ場所で、同じように寝息を立てていた。ほっとするかと思ったが、身体は更に緊張して血が逆流する。近づいたら心臓の音で彼女が起きてしまいそうだ。
 近づこうとして、ふと足が止まる。彼女にとっては昨日の今日。とうに卒業した男が用も無いのに目の前にやって来て、こんな赤い顔で息を荒くしていたら、本当に変態だと思われても仕方ないんじゃないか?
 俺は彼女から4,5メートル離れると、一旦息を整えてからゆっくり呼びかけた。

 「あの……」
  彼女の瞼が持ち上がる一瞬、長い睫毛に光が流れた。今まで俺はこんなにしっかり女性の顔を眺めた事があっただろうか。見とれるって、こういう事を言うんだな。
 「…………!!」
  彼女は俺の顔を確認した途端、また身体を真っ赤に染め上げると勢い良く立ち上がった。元々白い肌の持ち主らしく、セーラーの襟から覗かせた鎖骨が紅色に浮かんで妙に色っぽい。
 「! 待って!」
  慌てて左をすり抜けて行こうとする彼女の腕を辛うじて捕まえた。捕まえて気付いた。俺、何言おうとしてたんだっけ?そう言や全く考えてなかった。ていうか、そもそも何しに来たんだよ、俺! 頭の中が真っ白になる。どうしよう、このままじゃ本当に変態だ。
  一瞬、腕を持つ力が緩んだ。その隙に、彼女はその細い腕からは予測できない力で俺の手を振り解くと教室を飛び出した。駄目だ! ここで見失ったらもう会えない! 理屈というより直感でそう思った。
  こちらも慌てて後を追う。彼女の足は案外速く、既に昇降口に向かってカーブしたところだ。大丈夫、靴を履き替える時間を考えればまだ間に合う。俺は必死でダッシュして昇降口への角を曲がった。丁度彼女は靴を履き替え、こちらを伺うように振り返ったところだ。間に合え――!!

  …こんな時雄の本能というのは恐ろしいもので、俺はまだ挨拶も交わしたことのない彼女に向かって思い切りダイブしていた。…ああ、変態確定だ……。



  転倒して数十秒も経っていなかったと思う。目を覚ました俺の右手にはしっかりと彼女のストレートの黒髪が握られていて、そこから先は何もついていなかった。まさか、生首!? な訳はない。
 「これ、カツラ……?」
  視線の先に影が落ちたので仰ぎ見ると、目を潤ませて彼女だったヤツが脇に佇んでいた。

  ――何てこった……。

  多分、俺にとって彼女は初恋だったんだ。自分がこんなに恋愛に不器用だったなんて思わなかった。今まで俺にとって女というのは、勝手に寄ってきては祭り上げ付きまとう、煩い生き物でしかなかった。それが一瞬でこんなに気持ちが制御できなくなるなんて……。俺は今、自分を叩きのめしたい気持ちでいっぱいだ。
  俺はそいつに見覚えがあった。セーラーの裾をつまんで今にも泣き出しそうな表情で震えているそいつは、俺のクラスメイトで隣の席だった女子ソフト部部長、の双子の弟に間違いなかった――。


>『3月』第2章