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 俺の一番古い記憶は、白い布を顔に掛けて横たわる母親の姿だ。俺は誰か知らないおじさんに抱かれて、動かなくなった母親をただ見ていた。周りでは複数の人の口論が聞こえていて、とにかくそれが怖くて仕方が無い。俺は大きな背広に必死でしがみついて、その人の心音で喧騒から逃れようとした。

  俺の母は所謂シングルマザーという奴で、頼れる親類もいなかったから、本当に1人きりで俺を育てていた。
  母は商売の関係上、お付き合いはしているけれど『恋人』ではない男の人が複数いて、揉めていたのはその人達だ。まあその人達それぞれにも生活があるだろうし、こうして葬式に集まってくれただけでも母は愛されていたのだろうと思う。勿論これは今の俺だから思える事で、その当時は怖いばかりで何も理解ってはいなかった。
  揉め事の原因は、母が生涯口にすることの無かった俺の父親の正体で、結局俺は掴んだ背広を離さぬまま、今の家に連れて来られた。
  その日から知らないおじさんは父親になり、新しい母親と妹が出来た。

  『私はお前の本当の父親ではないかもしれない。でも私は、私こそが本当のお前の父親だと思っているよ』
  俺が新しい環境に慣れるまで、父は何度も俺にこう言った。母も必ず笑顔でそれに同意した。自分のかどうかも分からない子供を引き取った父の男気と、浮気相手の息子にも分け隔てなく接する母の情愛には、尊敬も感謝もしてもし足りないと思っている。しかしあの日の――、実の母が死んだ日に聞いた、大人達の怒号や罵声が耳にまとわり付いて、当時の俺は新しい両親にどうしても心が開けずにいた。
  でもまだ言葉も拙い妹は、何も分からぬまま唯こちらを見上げてくる。頭を撫でれば笑い、俺の行く所どこにでも付いて来て、転べば泣き、抱き上げればまた笑う。瞬く間に、俺は動く人形のような彼女の虜になった。
  彼女が何でもかんでも俺のすることを下手糞に真似するので、難しい顔や乱暴な事が出来なくなった。俺の話に瞳をきらきらさせて喜ぶので、読める本は片っ端から読んで、彼女が面白がるように適当に組み合わせた御伽噺をたくさん作った。
  お宅のお子さん達は、本当に仲の良いご兄妹で羨ましいわ。近所の人からそう言われた時の誇らしい気持ちを今も忘れない。こうして俺は、妹のおかげで新しい居場所を手に入れたのだ。




  高校受験のとき、俺は先生の勧めを断って、あまり有名校とはいえない私立の特待推薦試験を受けた。父も母も俺を本当の息子として育ててくれたが、だからこその負い目が俺にはあった。全くの他人かもしれない、良くても浮気相手の息子である俺を、笑顔で育て続けてくれた両親に、出来る限り苦労はかけたくない。そして自慢できる息子であり続けたかった。
  妹は相変わらず、俺の後ろを瞳をきらきらさせながら追ってくる。その姿に安心して、俺は前を向いて歩く事ができる。自分の居場所を確保する為に、俺は理想の兄であり続ける。俺にとって、彼女は生きる支えだった。
  だから正直、彼女がチョコレートを作っているのを見たときはひどく動揺したのだ。自分以外に彼女の理想が存在するなんて信じ難かった。しっかりしろ! こんな時に理想の兄ならどうするか??

 果たして自分の口に入れられたチョコはひどく苦くて、俺は長い夢から醒めた。ああ、そうだ。彼女は妹、妹なのだ――




  俺の目が醒めたからと言って、今更理想の兄を降りる訳にはいかなかった。何より自分が彼女の視線に耐えられない。俺は自分で敷いたレールの上を走り続ける。だけど最近、妹は俺の顔を見て笑わなくなった。少しずつずれていく距離を上手く修正する事ができないまま、俺は流れていく時間の波を必死にもがいた。

  今の俺の勉強部屋は父の書斎を潰した物で、俺の小学校入学のお祝いに譲り受けた物だ。それまで俺と妹は同じ子供部屋に寝泊りしていて、俺は新しい自分の城に心から喜んだ。
  しかし夜になると、自分の城は恐怖の館に一変した。独りだけの部屋は物音ひとつしない暗闇を作り出して、自分はそれに飲まれまいと布団に隠れて身を硬くした。
  しばらく息を潜めていると、遠くで泣き声が聞こえる。俺は飛び上がりそうになる心臓を押さえつけ、布団の端を握りしめて砦の守りを固くすると、じっと耳をそばたてた。泣き声はだんだんとか細くなり、同時に日本語として聞き取れるようになってきた。

  ……ぃ……ゃん…………

 しゃくりあげる幼い声に突然思い当たって、勇気を出して布団を飛び出し部屋のドアを開けると、足元で妹が泣いていた。怖くて眠れないのと言う妹を布団の中に招き入れ、背中からぎゅっと抱いて眠った。腕の中で嬉しそうに寝息をたてる妹の体温は温かく、俺は新しい部屋への恐怖もすっかり忘れていた。
  あの時の俺は妹を救った勇者のような気持ちで、同時に彼女の温かさに救われてここまで来た。しかし今の俺は彼女の救い方が分からない。

  最近嫌な夢を良く見る。大事な物や大事な人達が自分の脇からすり抜けて、前へ前へと流れていく。掴み取りたくて必死に手を伸ばすと、笑った顔が光に溶けて、目の前ではじけて消えてしまう。
  受験直前で睡眠は貴重だと言うのに、こんな調子では眠る気も起きない。それでも寝不足で失敗する訳にはいかなかったから、試験前日には薬を飲んで無理矢理眠った。
  顔に朝日が当たった気がしたので、俺は夢を見ずに眠ることが出来たのだと感じてほっとした。薬の余波だろうか、少し頭がくらくらする。目覚ましを確認すると、起きる時間にはまだ早いようだ。折角だから薬の勢いにまかせて今までの睡眠不足を取り戻しておこう。俺はそのまま瞳を閉じて肩の力を抜いた。
  再び眠りに落ちかけたその瞬間、親しんだ柔らかい物が額に当たった気がして、咄嗟に手を伸ばして捕まえた。今度こそ逃したくなくて必死に掴んで、何か叫んだかもしれない。
  程なく頭は覚醒したが、夢は実体として腕の中に残った。暖かい感触にぎくりとして思わず突き放すと、脅えた顔の妹と瞳が合った。

  失敗した――!!!

 目の前が暗く暗く落ちていくのに、彼女の甘い匂いが腕の中から消えてくれない。俺は理想の息子として、兄として、家族として、あの場所にいたかったんじゃなかったのか。小さい頃に父から聞かされた言葉を、頭の中で呪文のように繰り返す。思いたくない、思いたくないんだ、消えてくれと、心の中を必死で塗り潰す。もし、もしも俺と父親が本当の…… 
  



     最  低  だ。



  案の定受験には失敗し、両親は今からでも間に合う大学を探したらどうかとか、どうしても勉強したい事があるのなら、こちらは応援するから浪人しなさいとか言ってくれたが、どうにも力が入らなくなっていた俺は、曖昧に返事をしてぼんやりと一日を過ごしていた。
  そんな時、部活の後輩から呼び出しを受けて生物室に行くと、置きっ放しにしていた私物と一緒にチョコレートを渡された。本当は薄々彼女の気持ちには気付いていたのだが、チョコを渡されたのは意外だった。妹が生物室に現れて以来、彼女は俺に遠慮がちになっていたからだ。そういう意味では、彼女の方が俺より先に俺の気持ちを見抜いていた。

 「それではこれは私の可愛いライバルに渡してください」

  妹に惚れている俺が気持ち悪いから、離れていったのだとずっと思っていた。彼女はまっすぐに俺の瞳を見つめて来る。瞼の奥で彼女の瞳が妹と重なって、俺は力の抜けていた自分をようやく心地良いと感じたのだった。


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