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 受験に失敗してからというもの別人のように呆けていたお兄ちゃんが、学校からチョコレートを手に帰って来たので、あたしは目の前が真っ赤になった。去年は貰って帰って来なかったので油断していた。相手はあの娘に違いない。
「お前宛だって」
  固まったあたしにそう言って、お兄ちゃんは包みを手渡した。そんな訳ないじゃないと思ったが言い出せなかった。可愛らしい包みを開けると、綺麗な蝶の形をしたビターチョコがお行儀良く並んでいる。
  折角だからお礼にお茶でも淹れるね、と台所に向かう事でお兄ちゃんから離れるのに成功した。心がざわついて身体の制御が上手くできない。あたしはちゃんとお兄ちゃんに笑えているんだろうか? やかんの下の炎を眺めながら、気付かれぬように2・3度大きく息をする。
  あの文化祭以来、あたしはこっそり練習して紅茶だけは美味しく淹れられるようになったつもりだ。大丈夫。落ち着いてやればきっと上手くいく。
  お兄ちゃんは、最近では見かけなくなったさっぱりとした笑顔で、やはりやりたい事があるからもう一度受験しようと思うんだ、と言った。その決意そのものに対しては私もすごく嬉しかったので、喜びを素直に返すことが出来た。

  でもその決意をさせたのは誰なんだろう?

  ありがとう、とお兄ちゃんは微笑って、また以前のようにあたしの髪を撫でてくれた。その指先は優しくてあたしは蕩けてしまったけど、同時に身体の芯が重く痺れるように痛くなって、またちゃんと笑えているかどうか不安になった。
  せめて笑っていたい。お兄ちゃんに釣り合う妹になれないのなら、お兄ちゃんを少しでも安心させられるように。
  それ以外にお兄ちゃんの隣にいられる方法は、もう思いつかなかった。

  今年はあたしも受験なので、家でお兄ちゃんと一緒に勉強が出来る事が楽しい。いかんせん学力に差が有り過ぎて、教わるばかりなのが悲しかったけれど。あたしの紅茶をお兄ちゃんは美味しそうに飲んでくれたし、ふとした合間にお兄ちゃんの笑顔が覗けるのが嬉しかった。
  だけど重い痺れは小さな棘みたいになって、あたしの胸にいつまでもひっかかってる。この嫌な感じは何なんだろう。
  それは程なくして大きな波になってやってきた。

  あたしはこれからもお兄ちゃんとなるべく一緒に過ごしたかったけど、お兄ちゃんが狙っている地元の大学は、あたしの学力じゃ逆立ちしたって届かない。そこであたしは今の高校を決めた時のように、近所で推薦を狙える学校に狙いを定めることにした。
  狙いは見事に的中し、あたしは女子大生への切符を手にした。あたしは嬉しくて、これでお兄ちゃんとまた一緒に通学できるねと言ったら、お兄ちゃんはいつも困った時にする眉根を寄せた表情をして、今年は違う大学を受験するから合格したらこの家は出て行く事になるよと言われた。





  …………突然すぎて、思考が追いつかない。

  当然だけど、その事はお父さんもお母さんも知っていて、あたしだけが知らなかった。あたしだけが知らなくて、毎日に一喜一憂していたのだ。やりたい研究の第一人者の教授がその大学に居るのが理由らしいけど、納得がいかない。そんな事が理由なら、お兄ちゃん程の学力があれば去年のうちからそこを受験していた筈だ。ふと、嫌な考えがよぎる。……後輩のあの娘は、この事を知っているんだろうか?
  このままでは、また笑えなくなってしまう。あたしは校門の前に立ち、向かいの道路を横切る私服の学生達を目で追った。あそこの学校の生徒は、通学に必ずうちの学校の前を通る。やがて寒そうに背中を丸めて歩く彼女の姿を見かけた。
  声を掛けようか躊躇っていると、後ろから男子学生が走って来て彼女に声を掛けた。二、三言会話した彼女は怒ったように拳を振り上げたが、すぐに引っ込め、恥ずかしそうに横を向いてしまった。
  きっと彼女は彼の事が好き。
 そう感じたら話しかけられなくなってしまった。そうだ、あれから1年近く経っている。お兄ちゃんだって、もうここには通っていない。

  どうしよう。彼女には彼女の時間と人生があって、人の心も移ろいやすくて、それは誰にも止められない。彼女はきちんと自分の想いに整理をつけて、前を向いて歩いていた。――あたしは?
 あたしはお兄ちゃんの事が大好きで、憧れてて、釣り合う妹になりたくて、でもどうしても出来なくて。
  どうしよう。ずっとずっと好きだったけど、好きだったけど、妹になんかもうなりたくない。妹になんかなりたくなかったんだ、あたしは。どうしよう、あたし妹なのに。妹にしかなれないのに!
  彼女がもう一人のあたしだなんて、お兄ちゃんに何かしてあげたいだなんて、何て傲慢な夢想だろう。きっとお兄ちゃんは、断ち切ることも進むことも出来ず、自分に縋るばかりの情けない妹に失望したに違いない。





  その日、あたしはお母さんに呼ばれて2人きりになった。お前には内緒にしようって決めてた事なんだけどね、と切り出したお母さんの口調に重大さを感じて、あたしは姿勢を正して聞くことにした。
 「お兄ちゃんは本当は、うちの子じゃないの。お父さんの知り合いの子供だったんだけど、その方が亡くなって、他に頼れる人もいないみたいだったから、うちで引き取る事にしたの」
  お前はまだ小さかったし、引き取った以上お兄ちゃんもうちの子に変わりはないから、聞かれなかったら黙ってようかと思ってたんだけど……とお母さんはそこで言葉を濁した。じゃあどうして今になって? と聞くとお母さんは
「だってお前、お兄ちゃんのこと好きでしょう?」
と静かに微笑った。





  起きたらそこはあたしの部屋だった。
  そんな都合のいい話がある訳がない。あたしは幸せ過ぎる夢に吐き気を覚えた。吐きそうな気持ちを抑えているから、ずっと胃の奥がむかむかする。それでもお兄ちゃんの前では笑うことが出来た。大丈夫。まだやれる。
  試験が始まったら同時に家探しをするので、お兄ちゃんは向こうの家具付きウィークリーマンションを借りて、しばらく家には帰って来ないそうだ。落ちる気は微塵もないらしい。時間がない、急がなきゃ。あたしは台所に立った。
  気が付くと、お兄ちゃんが食器棚にもたれるようにして、黙ってあたしの背中を見ている。そう言えば、子供の頃もあたしが遊んでいるのをそうやって見ててくれてたな、とぼんやりと思う。あたしが転んで泣くとすぐに手を差し伸べてくれた。でもこれは、自分で全部やらなくちゃ意味が無い。
  今はまだ練習だからあげないよ、とあたしはあえておどけてみせる。お兄ちゃんもわざとらしく肩をすくめてみせた。陳腐だなと思いながら、あたしはゆっくり息を吸う。




  ちゃんと出来たら、貰ってくれる……?




  背中から気配が近づいて来ているのが伝わるけど、振り向くことができない。多分あと半歩。手が髪に伸びる。もう、15センチ。

  拳の握られる音が聞こえた気がした。楽しみにしているよ、とそれだけ言ってお兄ちゃんは部屋に戻って行った。ありがとう。大丈夫。あたしはちゃんと最後まで笑える。

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