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 その日は冬らしい晴れの日で、空は澄んだ淡い青色が広がって清々しいのに、強い北風のせいで洗濯物を干す指先に責められるような痛みが走ったのを覚えています。
 前もって聞かされてはいたものの、主人に連れられた幼い彼を見た瞬間、私はやはり『招かれざる客』と思わずにはいられませんでした。

 浮気なんて、実直を絵に描いたような主人に限ってまさか、という思いがありましたし、はっきり申し上げて今でも信じておりません。
 それでも、主人に問えば浮気を否定するような言葉は返ってこないでしょうし、万が一浮気が無かった証拠を突き止められたとしても、彼を引き取る気持ちを曲げる事はしないでしょう。そういう人なのです。
 彼女の死を聞くと、主人は「申し訳ない」と何度も私に頭を下げました。
 それで受け入れた訳ではありません。何を言っても聞かない人、受け入れられないのなら、離婚してでも責任をとろうとする人だという事を、嫌という程分かっていたからです。

 主人に抱かれたその子は、大人しくとても利発そうに見えましたが、主人には似ていないような印象をうけました。私の希望が目を曇らせているだけかもしれません。それでも、私が彼を主人の息子だとは思えない理由に足り得ました。
――きっと彼は主人の息子ではない。主人は彼女と関係はない。何か他に理由があって、主人と彼女は知り合い、誰からも受け入れられない子どもへの憐れみと、大人としての社会的責任から、うちに呼んだのだ――

 『他人』と思う方が楽でした。主人と血のつながりを感じない方が。

 他人だと思うからこそ、大切に育てようと思いました。いきさつは分からないけれど、主人が責任を感じるほどお世話になった方の息子さんをお預かりして立派に育てる――そう思えば、一人娘とも分け隔てなく育てようと配慮することもできました。
「私はお前の本当の父親ではないかもしれない。でも私は、私こそが本当のお前の父親だと思っているよ」
 私の気持ちを知ってか知らずか、主人は何度となく彼にこの言葉を口にしました。彼は主人の息子では無い――この言葉を聞くたびに、私はその想いを強固にしていったのです。

 最初のうちこそ人見知りがあったものの、彼は出会いの印象どおり利発で、また優しい子でした。
 幼い娘とはすぐに打ち解け、良く面倒をみ、娘も楽しそうに彼の後をついて回りました。
 親馬鹿で恐縮ですが、春の花壇のように美しく愛らしい娘と、その娘を守る騎士のような彼の組み合わせは人の目を惹きました。私は密かに2人を連れて歩くのが誇らしく、その点では彼の母親に感謝すらしておりました。

 そのような賤しい考えで、子供を育てるべきではありませんでした。罰が当たったのです。
 嫌な言い方をすれば、幼くして彼は分を弁えていたのでしょう。本当に彼は『いいこ』でした。何をさせてもそつなくこなし、我儘も言わず、道を踏み外す事もなく、努力を怠らず、常に私たちに気を使って生きていました。
 血が繋がっていなくとも、彼は私の自慢でした。幼いころから私が分け隔てなく育て上げた――そういった傲慢な自負がありました。
 聡明な彼は気づいていたのですね。私が彼をきちんと『息子』として育てていれば、彼の、いえ、彼と娘の叫びに気付けていた筈なのです。




 2人が成長し、子供から少年少女へ体つきを変える頃、私の中にちょっとした違和感が生まれました。
 傍からみれば、今まで通りの『仲のいい兄妹』でした。それはそうなのですが……なんと言ったらいいのでしょう。普通の兄妹と比べて仲が良すぎるというか、意識が強すぎるというか……、距離の取り方がおかしな気がしたのです。
 幼いうちは、良い事だと思います。お互いに世界が狭いのですから。喧嘩するより仲良く助け合うのは理想だと思います。しかし成長していけば、そのうち其々の世界も広がっていくのが普通でしょう。常に彼だけをめざし追いかけてくる妹のために、優しく微笑みかけながら道を作るように前を歩く兄。2人は学校が別れるほど大きくなってもなお、家庭内の小さな2人だけの世界に縛られているようでした。

 やがて、その事を決定づけるような出来事がありました。
 娘が台所に立って、甘い匂いをさせています。お恥ずかしながら、今まで率先して台所に立つことはしなかった娘でした。折しも2月。とうとうそのような親しい友人か、憧れの人が出来たのかと、娘の成長を密かに喜びながら、私は邪魔をしないよう遠くに離れ、見て見ぬふりを続けていました。
 いつの間にか、格闘する娘の傍らに彼がいました。悲しい顔をする娘に対し、いつものように微笑んで何かを教えているようでした。何でも知ってる子ねぇ。と、そこまでは日常よくある風景として、特に気にも留めませんでした。
 娘はしばらくそれに素直に従っていましたが、次第に怒ったように頬を赤らめ、とうとうふくれっ面のまま溶かしかけのチョコを彼の口の中に入れました。突然の娘の行為に彼は驚いた顔をして、それから、娘の頬へ指を伸ばして……――ああ、何と言ったらいいのでしょう。あんな表情を見たくは無かった!
 初めて、彼の笑顔の裏側に潜んだ本音を覗いた気がしました。その瞬間感じた嫌悪と恐怖。子を持つ親ならお分かりいただけるでしょう。
 彼は、娘にとっては兄かもしれません。でも私にとっては、どこまで行っても『他人』でしかないのです。その『他人』の男が、一つ屋根の下、年頃の大事な一人娘の傍に常にいるという事実に、今さらながら悪寒が走りました。たとえ娘がどんなに相手を慕い、相手が聡明で分別のある若者だったとしてもです。
 しかも彼は――考えたくもありませんが、ここまできたら考えないといけないでしょう。主人の血が流れているかもしれないのです。

 ≪私はお前の本当の父親ではないかもしれない。でも私は、私こそが本当のお前の父親だと思っているよ≫
 今頃になって、この言葉が呪縛になるなんて。
 意味のない例え話ですが、もし彼がよその家庭の息子で、ただの娘の先輩として紹介された若者だったら、私は両手をあげて彼を歓迎した事でしょう。彼の素晴らしさはよく知っています。私が育てたのですから。
 でも彼は駄目です。彼だけは駄目です。彼の出生を、今さら主人に尋ねることもできません。答えを聞くのが恐ろしい。

 しかしその日を境に、二人の距離が目に見えて離れて行きました。彼が私の心を悟ったのか、自分自身に恐怖を感じるようになったのか、それは分かりません。ただその日以来、娘の顔はみるみる暗くなっていきました。
 二人の間に悲しい溝が生まれているのが、手に取るように分かりました。でも今更どうしてやれば良いというのでしょう。ずっと親子になる事を拒否していた私が、彼に母親面して?
 その時やっと気づいたのです。私が、いえ、私たち夫婦が、長い間彼にどれだけ酷い仕打ちをしていたのかを。





 大学を落ちた彼が、リビングのソファに腰かけて何をするでもなく窓の外を眺めているのを見ながら、私はただ見つめているしかできませんでした。
 うちに引き取られて以来ずっと立ち向かってばかりいた彼の、おそらく初めての失敗でした。今まで彼にとって我が家は戦いの場であったように思うのです。娘と離れるようになってからは特に。
 魂の抜けたようなその佇まいは、普段の精悍な彼を知る者が見れば、とても哀しく映ったでしょう。でも私は、そんな彼の姿に安堵していました。少なくとも彼にとって、我が家は『帰る場所』であり、私は『無防備になっても良い相手』だと認識されていたのですから。
 
 しばらくして、呼び出されて出向いた高校から大量の荷物と一緒に帰宅した彼は、まるで憑き物が落ちたかのようなさっぱりとした表情をしていました。
 良い友人に恵まれて、幸せな高校生活を送れていたのでしょう。それは彼の資質と努力の賜物ですし、彼がそのおかげで立ち直れたのは、喜ばしい事です。頭では分かっています。が、気持ちとしては複雑でした。
 この数日間で、彼が私を身内だと考えていてくれた事が分かって嬉しかったのに、自分は結局なにもしてやれず、手柄を他人に取られたようで面白くありません。長い間『息子』として考えられなかったくせに、何を言っているのかとお思いでしょうが、私の中に『息子離れ』出来ていない自分がいるのです。自分でも驚きましたし、不思議でした。

 それから、彼のなかで決まった答えを私たち夫婦は聞かされる事になります。
 今までそれが当たり前でした。彼の出す答えはいつも正しく謙虚で、私たち夫婦にとって反対する余地の無いものでした。でも今回は……。彼は地元の大学進学を止めて、来年遠くの大学を受験したいと言い出しました。
「……ひとつ、聞いてもいいかしら?」
「何ですか?」
 今まで進学を勧めていた私たちです。彼の予想からすれば、一も二もなく賛成するところだったのでしょう。彼は小さく眉を動かすと、私の瞳を探るように見つめてきました。
「そこは随分遠いし授業も忙しそうだけれど、帰る予定はあるのかしら?」
「え……?」
 一瞬大きく開いた彼の瞳が、口ごもりながら左右に揺れました。主人も驚いた顔をして私を見つめています。
「誤解しないで欲しいのだけど――」
 二人の視線を感じながら、私はゆっくりと息を継ぎました。
「あなたは試験で、――残念な結果になって、それは悲しい事ではあったけれど、それから今日までのあなたとの時間は、私にとってとても幸せだったの。あなたはこれまでずっと完璧で――あろうとして、私たちに助けを求める事はしなかった。それでもこの数日間は、このリビングで見せたあなたの顔は、あなたの本当の気持ちだったのね」
 彼は何か言いたそうに、眉根を寄せていくらか唇を動かしましたが、私がゆっくりと微笑むとそのまま黙って瞼を伏せました。
「あなたがここに戻って来たくない理由は、分かっているつもりです。……それでも、帰っていらっしゃい。悲しい事や、辛い事だけじゃなくて、楽しい事や、喜びを分かち合いたい時、何も無くったっていいの。あなたが戻って来たい時にいつでも。……帰っていらっしゃい。あなたの家はここなのよ」
 ゆっくりと顔をあげた彼の瞳をみて、あの、はじめて主人に抱かれてうちにやって来た日の事を思い出しました。あの幼い瞳に向かって同じように、あなたの家はここなのだと言ってあげていたら、今の私がこんなに寂しい思いをしなくて済んだでしょうか。

 寂しいのです。頼られない事が寂しい。甘えてもらえない事が、本音をぶつけてもらえない事が、出ていかれてしまう事が、帰れない場所だと思われている事が、今まで過ごした彼との時間が、とてもとても寂しいのです。そして、そう思えた事がとても嬉しいのです。
「この家に待つ私たちが、あなたの今の家族なの。みんなあなたを待っているのよ」
 私は自分を誤解していました。私は確かに彼を主人の息子としては見ておりません。ですが、ずっと息子として慈しんで育ててきたのです。娘と同じように。分け隔てなく。それは誇りに思っていい事だったのです。
 私は彼を、愛していました。完全な息子として、ではありませんが、家族として。頼られたいと、愛したい、幸せになってもらいたいと願う程度には。
 




 彼に私の思いがどれだけ通じたのか、それは分かりません。私は彼にとって、決していい母親ではありませんでした。それでも、長い間一緒に暮らしていたのです。少しは絆のようなものがうまれていたのだと、信じてもいいでしょうか?
 1年後、試験のために家を出る彼は、私たちに向かって「行ってきます」と微笑んで出て行きました。もちろん「行ってらっしゃい」と答えました。彼はきっと帰ってくる。ここが彼の家なのだから――そう、思った矢先、
『チョコを届けに行ってきます』
 そう書置きを残して、娘が消えていました。目の前が真っ暗になりました。問題は何一つ解決していなかったのです。普段からぼんやりとした印象の娘に、こんな行動力があるとは思いませんでした。
 彼になんて伝えたら良いのでしょう。携帯のボタンを押す手が震えます。とぎれとぎれに話す私に、彼は
「心配いりません。――大丈夫ですよ」
と告げました。

 情けなさと申し訳なさで、通話を切ってからしばらく立ち上がる事も出来ませんでした。自分の気持ちの整理だけで、何故解決したなどと思ってしまったのでしょう。その間も娘はずっと彼に想いを寄せていたというのに。
 主人に話すべきでしょうか? そのうえで、親子かどうか調べて……。でも、もしそれで本当に親子であると証明されてしまったら? ただぬか喜びさせるだけになってしまいます。それに、子供たちの想いを軽々しく私が主人に告げるべきではないような気がします。
 ……そもそも娘は、彼の素性を知っていたでしょうか? 彼が引き取られた当時、娘はとても幼かったし、私の口から彼について娘に話した事は一度もありません。
 背筋に冷たいものが走りました。もし私の考えが正しいなら、娘は相当の覚悟を持っている事になります。

 ソファを手繰り寄せるように手すりに掴まりながら、なんとか腰を下ろしました。まずは落ち着かなくては。彼の元へは、ここから電車で2時間はかかります。きっと今日は帰ってこないつもりでしょう。今日は彼の言葉を信じて待つしかないとして――帰ってきたら、どう話すべきか……。長い夜になりそうです。


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