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 発車のベルが鳴る。無計画に飛び乗った最前列の車両は、混んでいるとまでは言わないけれど、そこそこ人がいて座るのを躊躇わせた。運転席側の窓から、初めての風景達が襲いかかるように後ろへと流れていく。目から飛び込む情報が多すぎて頭が痛い。あたしはドアに身体を預けると、ゆっくり息を吐きながら瞳を閉じた。
 朝目が覚めたら、もうあの人は家にいなかった。今日家を出る事は前もって聞かされていたから、早めに起きてチョコレートを渡すつもりでいたのに、それでも出し抜かれた。
「楽しみにしてる、って言ったくせに……」
 嘘つき。

 自宅から急行を使っても2時間強。確かに通うには遠い距離だ。この距離があたしたちに必要な距離。少なくとも向こうはそう思っている。――あたし、ちゃんと笑えるかな?
 もう一度ゆっくり息を吐いて、唇に指先を当てながら口角を上げてみる。ドアのガラスに映してみたけど、外が明るすぎて良く分からなかった。





 電車を降りると、どこかで見たことのあるような、でも知らない街。
 もしも大学に合格したら(落ちることは無いと思うけど)きっといつものように自分ひとりで家を探して、誰にも頼らず生活の基盤を立てて……。ここから彼の新しい世界が始まるのだろう。
 そうしたら、あたしは本当に蚊帳の外だ。彼の中にはひとかけらも入り込めない。

 オートロックのインターホンを前にして、改めて2,3回深呼吸。両中指で口角にそっと触れてからボタンを押した。
『はい』
 随分久しぶりに聞いた気がする。柔らかい、甘い、低音。
 インターホンのカメラに、あたしの顔はどう映っているんだろう? 下を向くな。背筋を伸ばして、笑え。

「お前、勝手にひとりで家を出てきたら駄目だろ。母さん電話口で青くなってたぞ」
「はぁい」
 ドアを開けるなり、そう叱られた。
 勝手に飛び出した訳ではない。置手紙はしてきた。だからこそ心配かけたのかもしれない。でなければ高校を卒業する娘が、たかだか昼の2時間程度いなくなったくらいで騒いだりしないだろう。ここまでの距離を改めて思う。
「お茶、淹れるね」
 お母さんへ連絡を入れようと、携帯のボタンを押す背中に声をかける。
 簡素なキッチン。独り暮らし用のウィークリーマンションなんてこんなものかもしれないけど、ワンルームの狭い空間に最低限の家具。生活感の感じられない部屋だ。もっとも今日越して来たばかりだし、ここに住み続ける訳でもないから当たり前なのかな。

 怒った声も素敵だけどね。

 シンクに手を置いて、下を向いたまま小さく笑う。
 お茶の道具を持って来て良かった。今のあたしが自信を持って出来る唯一の事だ。
「明日は、いよいよ本番なんでしょ」
「そうだよ」
 メールを打つ手を止めずに、彼が答える。
「あたしね、遅くなっちゃったけどチョコレート作ってきたの。食べて欲しくて」
「…………何だよ、それ。送ってくれたら良かったのに」
 小さくだけど表情が崩れた。

 受け取れない、とまでは言われなかったけど。
 やかんから勢いよく湯気がたつのを眺めながら、聞こえないようにゆっくりと10まで数える。大丈夫。大丈夫だよ。もう一度だけ指先を口角に当てて、あたしはコンロの火を止めた。






 ビターに仕上げたガトー・ショコラを小さく切り分ける。これがあなたの口に運ばれるのも、きっと今年が最後になるね。
「悪いけど、今回のは自信作だから。目の前で食べて感想聞かせて貰おうと思って」
「そんなに口元をじっと見られたら、食べるに食べられないんだけど」
「食べて」
「食べるけど」
「食べないで行っちゃったのが悪いんだから」
「………………」
「食べて」
「ああ。…………いただきます」

 ずるい。たかがチョコレートを食べたくらいで、人をこんな気持ちにさせて。駄目だ。ちゃんと笑うって決めたんだ。笑ってちゃんと、話をするんだ。
 お兄ちゃんが好き。ずっと釣り合う妹になりたいって思ってた――って思ってた。
 違ってた。『妹』になんてなりたくなんかなかった。本当はずっと。気付いてしまったから。
 決別しなくちゃいけない。『妹』じゃないと、『妹』として愛せないんだと、彼に認めてもらうためには。泣かない。甘えない。瞳を逸らさない。背筋を伸ばして、ちゃんと笑って、あたしが彼なしでも一人の人間として立てるところを見せなくちゃならない。

「美味しい?」
「ああ……。旨いよ。頑張ったな」
 静かに微笑んでいるけど、視線はティーカップに落としたまま。ちゃんと顔を見て話したいのに。
「…………ねぇ、生まれて初めてチョコ食べた日の事って覚えてる?」
「いや? さすがに覚えてないな」
「あたしは覚えてる」
「へぇ。すごいな」
「あなたがくれたんでしょ?」
 やっと視線がこっちに向いた。変な顔してる。困ったような、驚いたような。さすがに気付いたよね? 気付かない振りなんか出来ないよね?
「あなたが初めて家に来た日だよ。お父さんは、今まで見たことないカッコいい服着てた。抱かれたあなたも綺麗な格好だった。でもなんだか怖い雰囲気がして、あたしびっくりして泣いちゃったのね。そしたらあなたがポケットからチョコを一粒くれたの。ずっと入ってたせいで少し溶けてたんだけど、一生懸命包みを剥いてくれてね。――初めて食べたチョコは、ちょっとほろ苦くて、でもすっごくすっごく甘かった。それであたし、この人大好き! って思ったの」

 話しているうちに、こっちが恥ずかしくなって下を向いていた。いけない。姿勢を正して目線を前に向けると、彼が真っ青な顔で立ち上がりかけるところだった。
「ちょっ……」
 大丈夫? と言い出すより前に、彼の身体が大きく傾いた。





「ねぇ、ほんと大丈夫?」
 トイレも洗面台も一部屋に収まった狭苦しいユニットバスの中。便器を抱えて胃液を吐く彼に、背中をさすってやる事しか出来ない。
「どうしよう。会心の出来だと思ったのに。何か間違ったかな? 変な味した? 本当にごめんなさい。……どうしよう、明日の試験に影響したら。この辺の薬屋さんって、どこかなぁ?」
 こんな肝心な時にまたしてもドジを踏む、自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。せめてその失敗が自分にふりかかるものなら良かったのに。また彼に迷惑をかけてしまった。しかも彼の人生を左右する大事な時に。
 こんな事ならしなければ良かった。所詮、あたしのやっている事なんてただの自己満足に過ぎない。ただ気持ちを昇華するためだけの――彼の人生にとっては何の意義もない。それどころか、とんだお荷物だ。
「……………………違ゥ、から……」
 弱々しい声でそれだけ返ってきて、彼はまた勢いよくえずき出した。確かにチョコも紅茶もそんなにたくさんあった訳ではないけど。実際胃の中に何も残っていないのか、さっきから透明な酸ばかり出ている。

「…………お前……どこまで、知ってた……?」
 吐くものがすっかり無くなって、しばらく荒い息をしながら咳き込んだりしていた彼の、ようやく紡いだ言葉の意味が、私には良く分からななかった。
「何の話?」
「だから!」
 一瞬出した大声は、再び襲って来た吐き気にかき消された。落ち着くまで黙って背中をさする。いつも追いかけていた背中が、こんなに頼りなげに見えたのは生まれて初めてだ。
「……………………全部、だよ」
 吐き気が収まった彼は、大きく息を吸うと、ため息をつくようにそう呟いた。
「俺と父さんとの事とか、俺の母さんの事とか……どこまで覚えてる? どこまで聞いてた? お前、あの頃まだちっちゃかったし。あの時、父さんお前にも言ってたのか?」

 本当に、何の話?

 俺と、父さんと『俺の』母さん? あなたのお母さんはあたしのお母さんなんじゃないの? お父さん? お父さん、あたしに何か言ってたかな?
 彼の背中を見つめながら考え込んでしまったあたしに気付いて、彼ははっとした表情で振り返った。瞳と瞳が合って、それでも答えが出せないでいるあたしを見て、彼は大きく下唇を噛むと視線を横に逸らした。その仕草に、鈍いあたしの脳にも光が点る。
「…………あたし勝手に、あなたは小さい頃どこかに預けられてたのかと思ってたんだけど」
 今まで夢のように思い描いて、でも願わないように押し殺していた事だ。でも、でも、もしかして……。信じられない予感に、声が震える。
「――……つまり、それは……」
「家族だよ!!」
 覆いかぶさるような叫び声で、あたしの淡い期待は打ち砕かれた。
「家族だよ…………。当然だろ?」
 そう言って、彼は便座に腰掛けると祈るように組んだ指に額を押しつけ、その肘を膝の上に乗せた。膝が小刻みに揺れている。






 ああ、そうか。
 いつも優しい『お兄ちゃん』だったから、ずっと大事に包んでもらってたから、勘違いしてた。
 分かってたつもりで、やっぱり心のどこかで期待してた。過信してた。
 あたしはずっと彼のことが大好きで、彼もその想いに答えてくれているんだと思ってた。この想いも、たとえ叶わなくても、微笑んで受け止めて包んでくれるんだって。 

 ドアを開けてから、ずっと冷たかったじゃない!
 チョコも受け取らずに黙って出て行かれたじゃない!
 受験先だって、内緒で変えてたじゃない!
 去年の受験の朝、突き飛ばされたじゃない!

 『妹』から貰うチョコは哀しいんだってさ。言ってたじゃない。
 やっと分かった。あなたはいつも、ギリギリのところであたしを排除する。





「……………………お兄ちゃん」
 組んだ手の上から、ゆっくりと頭が持ち上がる。この部屋に来て、初めて彼をそう呼んだ。
 やっと分かったよ。あなたの本当の気持ち。
 あたしにあげられるものが、やっと分かった。だから。

 嘘をつこう。
 本当の言葉で、嘘をつこう。

「お兄ちゃん、あたしね」
 好きよ。
「好きな人がいるの」
 はじめて会ったときからずっと。
「大好きなの。でも」
 ずっと、ずっと好きなの。
「…………ふられちゃ、って」
 ずっと、そばにいて欲しかったけど。
「だから大学に行ったら、さ」
 あなたが欲しかったのは、あたしじゃなかったから。
「ちゃんと新しい恋、するんだ」
 だから、あげる。
「それで、いつかは結婚してさ」
 あなたの欲しかったものをあげる。
「子どもとかいっぱい産んでさ。幸せになるからさ。だから」
 『家族』をあげる。『妹』でいてあげるよ。
「お兄ちゃんも……可愛いお嫁さんとかもらって、さ。子ども作ってさ」
 解放してあげるよ。
「それでお正月とかみんなで集まってさ、そういうの」
 だから…
「きっと楽しいよねぇ?」
 だから…………!!

「……………………うん。……そうだな」
 お兄ちゃんは視線を右に逸らせながら呟いて、それからゆっくり瞼を伏せた。
 良かった。微笑えた。
 奥歯に少し力がかかるけど、きっと慣れる。
「お兄ちゃんの事が大好きだよ。……みんなそうだよ。だから、時々は帰って来てよ。勝手に一人でどっかに行っちゃったりしないで」
「なんだか母さんにも同じような事言われたな。放浪癖でもあると思われてるのか? 俺」
 お兄ちゃんは失笑して、今度はしっかりとあたしに瞳を合わせた。細められた目。良かった。いつものお兄ちゃんだ。お兄ちゃんの右手が、あたしの巻毛に触れる。
「髪の毛だって、もう切るよ」
「うん」
 玩ばれて揺れる髪にお兄ちゃんの視線が注がれて、神経なんて通ってないはずなのに、なんだかくすぐったい。

 しばらく一緒に揺れる毛先を眺めていたけど、だんだん恥ずかしくなってお兄ちゃんの前に腰を下ろした。狭いなぁ。開いたままになっていたドアの枠に腰掛けているのに、お兄ちゃんと膝がぶつかってしまう。あたしは腰を少し浮かせて、お兄ちゃんの膝に身体を預けた。腿に腕を重ねて顔を埋めると、お兄ちゃんが空いた左手であたしの頭の後ろを撫でてくれる。
 優しい手。溶けちゃいそう。大きくて、あったかくて。
「…………お兄ちゃん」
「うん?」
「身体、もう大丈夫?」
「ああ……。うん」
 あたしはお兄ちゃんの両手を掴むと、包むようにそっと握って立ち上がった。不思議そうに見上げるお兄ちゃんに微笑ってみせる。今頃になって惜しくなった? でもこれは、あなたが決めた事でしょ。
「それじゃあね」
「え? 帰るのか?」
「何、驚いてるの? 帰るよ。試験前日の人、これ以上邪魔したりしないって」
「ああ、そっか。じゃあ送って行くから」
「ええ? いいよ。一人で帰れる。一体あたしをいくつだと思ってるの?」
 ここまでだって、一人で来れたんだよ?
「まだ太陽もこんなに高い」
 バスルームを出て、ベランダの窓に視線を向ける。冬の日差しは、レースのカーテンを突き抜けて、フローリングの床に長細い光を作り出していた。その中心に置かれたテーブルの上には、すっかり冷めてしまった紅茶と食べかけのガトー・ショコラが残されている。
「あれ置いてっていいかな? あ、でも食べないで捨てちゃってね。これ以上体調悪くしたら大変だから」
 返事を返されないように顔を見ないでそれだけ言って、コートに袖を通しながら素早く玄関に向かう。
「じゃ、頑張ってね」
「ん? ああ。気をつけて帰れよ」
 分かってないなぁ。 

「バイバイ」





 家に着いたら、まだ夕方だった。帰りの2時間はあっという間だった。行きはとても長く感じられたのに。
 最後尾の車両は2~3人乗客がいるだけだったけど、なんとなく座る気になれなくて、車掌室のドアに身体を預けながら閉じられたカーテンの隙間を眺めていた。後ろの窓に現れる風景は、来た道を高速で逆回しするみたいに前へ前へと流れていく。なんだか過去に戻っていくようだ。あたしは手を伸ばして捕まえたい衝動にかられるのを何度も我慢した。
 あの人と離れる事を決めたのに、なんだか可笑しくてたまらない。凛として、冷静で、いつも優しく包んでくれる憧れだった『お兄ちゃん』。情けなくて寂しがり屋で甘えん坊で……そんな人だなんて知らなかった。
 幼い頃から鈍くさくて泣き虫だったから、今まで全然気付かなかった。あたしがもっと大人だったら、きちんとあなたと対等に向き合えていたなら、きっとあなたも安心できて、違う結果もあったのかな? ……考えても仕方ない。だっておあいこだよね? あなただって気付いてなかった。あたしもう18歳なんだよ。2時間くらいの距離、簡単に飛び越えられる。

 ドアを開けると、お母さんまで驚いた顔をした。血の気の引いた頬に赤みが戻って、心底ほっとした表情でおかえり、と言ってくれた。そりゃ近いとは思わないけど、日帰りで帰れる距離へチョコを渡しに行ったくらいで、何がそんなに心配なの? とそこまで考えてふと、思い当たる。
「そういえばさ、何でお兄ちゃんの所だって分かったの?」
 あたしは『チョコを届けに行ってきます』としか書かなかった。友達に渡すかもしれないのに。まさか『お兄ちゃんなら何でも知ってるから』と思って電話した訳でもないだろう。
「そりゃ分かるわよ。お母さんだもん」
 お母さんはわざとらしく胸を張ってみせて、それから優しい、でも真剣な表情になって聞いてきた。
「お兄ちゃんと、きちんと話せた?」
「え? ……うん。まあ」
「本当の事が知りたい?」

 一瞬、頭が真っ白になったけど、あたしは微笑って首を降った。
 あの人とうちの家族と、何かあるのかもしれないけれど、そんな事はどうでもいい事。あたしが、たとえ血が繋がっていたとしても彼を愛してしまったように。大事なのは彼自身の想い。彼自身の選ぶ道。
「なんだか心配かけちゃってたみたいだね。ごめんね、ありがとう。でも大丈夫だから」
 そう言ってお母さんに微笑み返して、自分の部屋に向かいかけたあたしは、彼の部屋の前で立ち止まった。お母さんに気付かれないよう、そっとドアのノブを回す。
 完全に主の居なくなった筈の部屋は、いつもと全く変わっていないように見えた。本当に必要最低限の物しか持ち出さなかったんだね。長い間に染まった香りまでそのままで、ここにいると、今にもそのドアを開けてあの人が入って来そうな気がする。あたしは軽く首を振ってコートのポケットに手を入れた。
――また、お守り渡しそびれちゃった。でもこれ去年のだし、もうご利益も無いかな?
 あたしはお守りの中身を全部抜いてしまうと、彼の机に袋を置いて、引き出しの中から鋏を手に取った。
 左手で自分の巻毛をひとふさ掴んで、くるくると指先に絡める。昔からこれに触るのが好きだったよね。あなたが愛してくれたから、ここまで綺麗に伸ばしたんだよ。

 だからもう要らないんだけど。
 他の誰かに触れさせるのは、絶対に嫌だから。

 彼が最後に遊んだ辺りを狙って鋏を入れる。それを丁寧にお守りの袋にしまうと、またコートのポケットに戻した。
 これくらいの独り占め、してもいいでしょ?
 いつの間にか、西側の窓が暮れなずんでいる。あたしは鋏をしまうとカーテンを閉めた。視界が闇で遮られた瞬間、部屋中に充満していた彼の気配が克明に浮かび上がる。
――ああ、好きだなぁ。
 身体中包まれたくて、両手を広げる。

 歩く時の、真っ直ぐに伸びた背筋が好き。
 しっかりとした黒髪が好き。
 すらりと長い手足が好き。 
 穏やかに話す口調と、それに似あう柔らかくて甘い、低音の声が好き。
 微笑った時の、細められた目が好き。
 あたしの髪を撫でる、あたたかくて優しい指先が好き。
 触れた瞬間に、ほのかに漂う匂いが好き。

 
 ゆっくりと大きく息を吸いこんで瞳を閉じる。あなたが好き。大好き。あなたの想いも生き方も、未来だって全部愛せるよ。……だから、大丈夫。この部屋がこのままでも。
 さすがに今夜は泣いちゃうかもしれないけどね。

 口角が上がるのを確認してから瞼を開いた。ドアを開けると、電気の点いた廊下は眩しくて、つい目を細めて微笑ってしまった。あたしはそっと後ろ手でドアを閉めると、姿勢を正して前を向いた。
 明日は、髪を切りに行こう。