まえがたつからぜんりつせん


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創作小説

小説『2月』 第5章

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 受験に失敗してからというもの別人のように呆けていたお兄ちゃんが、学校からチョコレートを手に帰って来たので、あたしは目の前が真っ赤になった。去年は貰って帰って来なかったので油断していた。相手はあの娘に違いない。
「お前宛だって」
  固まったあたしにそう言って、お兄ちゃんは包みを手渡した。そんな訳ないじゃないと思ったが言い出せなかった。可愛らしい包みを開けると、綺麗な蝶の形をしたビターチョコがお行儀良く並んでいる。
  折角だからお礼にお茶でも淹れるね、と台所に向かう事でお兄ちゃんから離れるのに成功した。心がざわついて身体の制御が上手くできない。あたしはちゃんとお兄ちゃんに笑えているんだろうか? やかんの下の炎を眺めながら、気付かれぬように2・3度大きく息をする。
  あの文化祭以来、あたしはこっそり練習して紅茶だけは美味しく淹れられるようになったつもりだ。大丈夫。落ち着いてやればきっと上手くいく。
  お兄ちゃんは、最近では見かけなくなったさっぱりとした笑顔で、やはりやりたい事があるからもう一度受験しようと思うんだ、と言った。その決意そのものに対しては私もすごく嬉しかったので、喜びを素直に返すことが出来た。

  でもその決意をさせたのは誰なんだろう?

  ありがとう、とお兄ちゃんは微笑って、また以前のようにあたしの髪を撫でてくれた。その指先は優しくてあたしは蕩けてしまったけど、同時に身体の芯が重く痺れるように痛くなって、またちゃんと笑えているかどうか不安になった。
  せめて笑っていたい。お兄ちゃんに釣り合う妹になれないのなら、お兄ちゃんを少しでも安心させられるように。
  それ以外にお兄ちゃんの隣にいられる方法は、もう思いつかなかった。

  今年はあたしも受験なので、家でお兄ちゃんと一緒に勉強が出来る事が楽しい。いかんせん学力に差が有り過ぎて、教わるばかりなのが悲しかったけれど。あたしの紅茶をお兄ちゃんは美味しそうに飲んでくれたし、ふとした合間にお兄ちゃんの笑顔が覗けるのが嬉しかった。
  だけど重い痺れは小さな棘みたいになって、あたしの胸にいつまでもひっかかってる。この嫌な感じは何なんだろう。
  それは程なくして大きな波になってやってきた。

  あたしはこれからもお兄ちゃんとなるべく一緒に過ごしたかったけど、お兄ちゃんが狙っている地元の大学は、あたしの学力じゃ逆立ちしたって届かない。そこであたしは今の高校を決めた時のように、近所で推薦を狙える学校に狙いを定めることにした。
  狙いは見事に的中し、あたしは女子大生への切符を手にした。あたしは嬉しくて、これでお兄ちゃんとまた一緒に通学できるねと言ったら、お兄ちゃんはいつも困った時にする眉根を寄せた表情をして、今年は違う大学を受験するから合格したらこの家は出て行く事になるよと言われた。





  …………突然すぎて、思考が追いつかない。

  当然だけど、その事はお父さんもお母さんも知っていて、あたしだけが知らなかった。あたしだけが知らなくて、毎日に一喜一憂していたのだ。やりたい研究の第一人者の教授がその大学に居るのが理由らしいけど、納得がいかない。そんな事が理由なら、お兄ちゃん程の学力があれば去年のうちからそこを受験していた筈だ。ふと、嫌な考えがよぎる。……後輩のあの娘は、この事を知っているんだろうか?
  このままでは、また笑えなくなってしまう。あたしは校門の前に立ち、向かいの道路を横切る私服の学生達を目で追った。あそこの学校の生徒は、通学に必ずうちの学校の前を通る。やがて寒そうに背中を丸めて歩く彼女の姿を見かけた。
  声を掛けようか躊躇っていると、後ろから男子学生が走って来て彼女に声を掛けた。二、三言会話した彼女は怒ったように拳を振り上げたが、すぐに引っ込め、恥ずかしそうに横を向いてしまった。
  きっと彼女は彼の事が好き。
 そう感じたら話しかけられなくなってしまった。そうだ、あれから1年近く経っている。お兄ちゃんだって、もうここには通っていない。

  どうしよう。彼女には彼女の時間と人生があって、人の心も移ろいやすくて、それは誰にも止められない。彼女はきちんと自分の想いに整理をつけて、前を向いて歩いていた。――あたしは?
 あたしはお兄ちゃんの事が大好きで、憧れてて、釣り合う妹になりたくて、でもどうしても出来なくて。
  どうしよう。ずっとずっと好きだったけど、好きだったけど、妹になんかもうなりたくない。妹になんかなりたくなかったんだ、あたしは。どうしよう、あたし妹なのに。妹にしかなれないのに!
  彼女がもう一人のあたしだなんて、お兄ちゃんに何かしてあげたいだなんて、何て傲慢な夢想だろう。きっとお兄ちゃんは、断ち切ることも進むことも出来ず、自分に縋るばかりの情けない妹に失望したに違いない。





  その日、あたしはお母さんに呼ばれて2人きりになった。お前には内緒にしようって決めてた事なんだけどね、と切り出したお母さんの口調に重大さを感じて、あたしは姿勢を正して聞くことにした。
 「お兄ちゃんは本当は、うちの子じゃないの。お父さんの知り合いの子供だったんだけど、その方が亡くなって、他に頼れる人もいないみたいだったから、うちで引き取る事にしたの」
  お前はまだ小さかったし、引き取った以上お兄ちゃんもうちの子に変わりはないから、聞かれなかったら黙ってようかと思ってたんだけど……とお母さんはそこで言葉を濁した。じゃあどうして今になって? と聞くとお母さんは
「だってお前、お兄ちゃんのこと好きでしょう?」
と静かに微笑った。





  起きたらそこはあたしの部屋だった。
  そんな都合のいい話がある訳がない。あたしは幸せ過ぎる夢に吐き気を覚えた。吐きそうな気持ちを抑えているから、ずっと胃の奥がむかむかする。それでもお兄ちゃんの前では笑うことが出来た。大丈夫。まだやれる。
  試験が始まったら同時に家探しをするので、お兄ちゃんは向こうの家具付きウィークリーマンションを借りて、しばらく家には帰って来ないそうだ。落ちる気は微塵もないらしい。時間がない、急がなきゃ。あたしは台所に立った。
  気が付くと、お兄ちゃんが食器棚にもたれるようにして、黙ってあたしの背中を見ている。そう言えば、子供の頃もあたしが遊んでいるのをそうやって見ててくれてたな、とぼんやりと思う。あたしが転んで泣くとすぐに手を差し伸べてくれた。でもこれは、自分で全部やらなくちゃ意味が無い。
  今はまだ練習だからあげないよ、とあたしはあえておどけてみせる。お兄ちゃんもわざとらしく肩をすくめてみせた。陳腐だなと思いながら、あたしはゆっくり息を吸う。




  ちゃんと出来たら、貰ってくれる……?




  背中から気配が近づいて来ているのが伝わるけど、振り向くことができない。多分あと半歩。手が髪に伸びる。もう、15センチ。

  拳の握られる音が聞こえた気がした。楽しみにしているよ、とそれだけ言ってお兄ちゃんは部屋に戻って行った。ありがとう。大丈夫。あたしはちゃんと最後まで笑える。

>『2月』第6章

小説『2月』 第4章

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 俺の一番古い記憶は、白い布を顔に掛けて横たわる母親の姿だ。俺は誰か知らないおじさんに抱かれて、動かなくなった母親をただ見ていた。周りでは複数の人の口論が聞こえていて、とにかくそれが怖くて仕方が無い。俺は大きな背広に必死でしがみついて、その人の心音で喧騒から逃れようとした。

  俺の母は所謂シングルマザーという奴で、頼れる親類もいなかったから、本当に1人きりで俺を育てていた。
  母は商売の関係上、お付き合いはしているけれど『恋人』ではない男の人が複数いて、揉めていたのはその人達だ。まあその人達それぞれにも生活があるだろうし、こうして葬式に集まってくれただけでも母は愛されていたのだろうと思う。勿論これは今の俺だから思える事で、その当時は怖いばかりで何も理解ってはいなかった。
  揉め事の原因は、母が生涯口にすることの無かった俺の父親の正体で、結局俺は掴んだ背広を離さぬまま、今の家に連れて来られた。
  その日から知らないおじさんは父親になり、新しい母親と妹が出来た。

  『私はお前の本当の父親ではないかもしれない。でも私は、私こそが本当のお前の父親だと思っているよ』
  俺が新しい環境に慣れるまで、父は何度も俺にこう言った。母も必ず笑顔でそれに同意した。自分のかどうかも分からない子供を引き取った父の男気と、浮気相手の息子にも分け隔てなく接する母の情愛には、尊敬も感謝もしてもし足りないと思っている。しかしあの日の――、実の母が死んだ日に聞いた、大人達の怒号や罵声が耳にまとわり付いて、当時の俺は新しい両親にどうしても心が開けずにいた。
  でもまだ言葉も拙い妹は、何も分からぬまま唯こちらを見上げてくる。頭を撫でれば笑い、俺の行く所どこにでも付いて来て、転べば泣き、抱き上げればまた笑う。瞬く間に、俺は動く人形のような彼女の虜になった。
  彼女が何でもかんでも俺のすることを下手糞に真似するので、難しい顔や乱暴な事が出来なくなった。俺の話に瞳をきらきらさせて喜ぶので、読める本は片っ端から読んで、彼女が面白がるように適当に組み合わせた御伽噺をたくさん作った。
  お宅のお子さん達は、本当に仲の良いご兄妹で羨ましいわ。近所の人からそう言われた時の誇らしい気持ちを今も忘れない。こうして俺は、妹のおかげで新しい居場所を手に入れたのだ。




  高校受験のとき、俺は先生の勧めを断って、あまり有名校とはいえない私立の特待推薦試験を受けた。父も母も俺を本当の息子として育ててくれたが、だからこその負い目が俺にはあった。全くの他人かもしれない、良くても浮気相手の息子である俺を、笑顔で育て続けてくれた両親に、出来る限り苦労はかけたくない。そして自慢できる息子であり続けたかった。
  妹は相変わらず、俺の後ろを瞳をきらきらさせながら追ってくる。その姿に安心して、俺は前を向いて歩く事ができる。自分の居場所を確保する為に、俺は理想の兄であり続ける。俺にとって、彼女は生きる支えだった。
  だから正直、彼女がチョコレートを作っているのを見たときはひどく動揺したのだ。自分以外に彼女の理想が存在するなんて信じ難かった。しっかりしろ! こんな時に理想の兄ならどうするか??

 果たして自分の口に入れられたチョコはひどく苦くて、俺は長い夢から醒めた。ああ、そうだ。彼女は妹、妹なのだ――




  俺の目が醒めたからと言って、今更理想の兄を降りる訳にはいかなかった。何より自分が彼女の視線に耐えられない。俺は自分で敷いたレールの上を走り続ける。だけど最近、妹は俺の顔を見て笑わなくなった。少しずつずれていく距離を上手く修正する事ができないまま、俺は流れていく時間の波を必死にもがいた。

  今の俺の勉強部屋は父の書斎を潰した物で、俺の小学校入学のお祝いに譲り受けた物だ。それまで俺と妹は同じ子供部屋に寝泊りしていて、俺は新しい自分の城に心から喜んだ。
  しかし夜になると、自分の城は恐怖の館に一変した。独りだけの部屋は物音ひとつしない暗闇を作り出して、自分はそれに飲まれまいと布団に隠れて身を硬くした。
  しばらく息を潜めていると、遠くで泣き声が聞こえる。俺は飛び上がりそうになる心臓を押さえつけ、布団の端を握りしめて砦の守りを固くすると、じっと耳をそばたてた。泣き声はだんだんとか細くなり、同時に日本語として聞き取れるようになってきた。

  ……ぃ……ゃん…………

 しゃくりあげる幼い声に突然思い当たって、勇気を出して布団を飛び出し部屋のドアを開けると、足元で妹が泣いていた。怖くて眠れないのと言う妹を布団の中に招き入れ、背中からぎゅっと抱いて眠った。腕の中で嬉しそうに寝息をたてる妹の体温は温かく、俺は新しい部屋への恐怖もすっかり忘れていた。
  あの時の俺は妹を救った勇者のような気持ちで、同時に彼女の温かさに救われてここまで来た。しかし今の俺は彼女の救い方が分からない。

  最近嫌な夢を良く見る。大事な物や大事な人達が自分の脇からすり抜けて、前へ前へと流れていく。掴み取りたくて必死に手を伸ばすと、笑った顔が光に溶けて、目の前ではじけて消えてしまう。
  受験直前で睡眠は貴重だと言うのに、こんな調子では眠る気も起きない。それでも寝不足で失敗する訳にはいかなかったから、試験前日には薬を飲んで無理矢理眠った。
  顔に朝日が当たった気がしたので、俺は夢を見ずに眠ることが出来たのだと感じてほっとした。薬の余波だろうか、少し頭がくらくらする。目覚ましを確認すると、起きる時間にはまだ早いようだ。折角だから薬の勢いにまかせて今までの睡眠不足を取り戻しておこう。俺はそのまま瞳を閉じて肩の力を抜いた。
  再び眠りに落ちかけたその瞬間、親しんだ柔らかい物が額に当たった気がして、咄嗟に手を伸ばして捕まえた。今度こそ逃したくなくて必死に掴んで、何か叫んだかもしれない。
  程なく頭は覚醒したが、夢は実体として腕の中に残った。暖かい感触にぎくりとして思わず突き放すと、脅えた顔の妹と瞳が合った。

  失敗した――!!!

 目の前が暗く暗く落ちていくのに、彼女の甘い匂いが腕の中から消えてくれない。俺は理想の息子として、兄として、家族として、あの場所にいたかったんじゃなかったのか。小さい頃に父から聞かされた言葉を、頭の中で呪文のように繰り返す。思いたくない、思いたくないんだ、消えてくれと、心の中を必死で塗り潰す。もし、もしも俺と父親が本当の…… 
  



     最  低  だ。



  案の定受験には失敗し、両親は今からでも間に合う大学を探したらどうかとか、どうしても勉強したい事があるのなら、こちらは応援するから浪人しなさいとか言ってくれたが、どうにも力が入らなくなっていた俺は、曖昧に返事をしてぼんやりと一日を過ごしていた。
  そんな時、部活の後輩から呼び出しを受けて生物室に行くと、置きっ放しにしていた私物と一緒にチョコレートを渡された。本当は薄々彼女の気持ちには気付いていたのだが、チョコを渡されたのは意外だった。妹が生物室に現れて以来、彼女は俺に遠慮がちになっていたからだ。そういう意味では、彼女の方が俺より先に俺の気持ちを見抜いていた。

 「それではこれは私の可愛いライバルに渡してください」

  妹に惚れている俺が気持ち悪いから、離れていったのだとずっと思っていた。彼女はまっすぐに俺の瞳を見つめて来る。瞼の奥で彼女の瞳が妹と重なって、俺は力の抜けていた自分をようやく心地良いと感じたのだった。


>『2月』第5章

小説『2月』 第3章

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 高校3年の4月、お兄ちゃんは両親に向かって「我侭言って申し訳ありませんが、学びたいことがあるので大学に通わせてください」と頭を下げた。
 あたしと違って小さな頃から頭の良かったお兄ちゃんが、大学進学以外の道を進むなんて想像した事も無かったから、お兄ちゃんのこの態度にあたしはとても驚いた。お父さんもお母さんも、はじめからその気だからお前は気にせず勉強しなさい、希望するなら塾や家庭教師もお願いするからと答えていた。
  だけどお兄ちゃんは独学を決意し、更に大学進学への資金の足しにとアルバイトまで始めてしまった。さすがに心配になった両親が、学費の事は気にしなくていいからバイトは辞めて勉強しなさいと言ったけど、義務教育でもないのに自分の勝手で迷惑はかけたくないからと、バイトを続ける事と受験校を地元の大学1本に絞る事とを宣言した。

 そういえば、お兄ちゃんは高校受験の時も、担任の先生の強い勧めを押し切り、県内一と謳われた高校への受験を取り止めて、そこより2ランク下になる今の高校の特待推薦枠に入ったのだった。
 そこの特待推薦は、進学校ではあるが一流とは言い切れない現状況を打破するため、一流大学進学率を少しでも上げて入学希望者を増やそうと考えて作られたクラスで、合格者はなんと交通費以外の学費が全て無料になる。その代わり毎年進級試験が行われ、成績の下がったものは容赦なく普通クラスへ落とされるという過酷な制度だ。
 あの時は、そういったストイックな姿勢を貫くお兄ちゃんを素直にカッコいいと思えたし、自分もそれに続いて、お兄ちゃんの妹に相応しいと言われたいと頑張る事ができた。(結局叶わなかったけど)
  でもこんな事が2度も続くと、鈍いあたしでもさすがに不安になる。もしかして、あたしが知らないだけでうちって結構苦しいんだろうか。

  お金の事を両親に聞くのは気が引けたから、直接お兄ちゃんに聞くことにした。あたしの話を聞いたお兄ちゃんは、そんな馬鹿なと笑い飛ばして、これは自分の意思で行っているだけだから、お前が心配するような事は何もないよと、いつものようにあたしの髪を優しく撫でてくれた。
  普段だったら、これで心配事なんか綺麗に吹き飛んで笑顔になれるのに。あたしの心は深く沈んでいくばかりだった。
  小さな頃からお兄ちゃんは欲が無いと言うか、自分の欲しい物に対して他人の手を借りたがらない所がある。
 いつも黙って努力するお兄ちゃんをあたしは尊敬してたし憧れてたけど、あたしだってもう今年で17歳になる。少しはお兄ちゃんの支えになれる年齢になっている筈だ。
  いつまでも顔を上げないあたしに、お兄ちゃんの手が止まった。しまった、と思ったけど、どうしても笑顔を作る事ができない。お兄ちゃんはあたしの頭の上から手をそっと引くと、余計な心配かけたならごめんな、と言って自分の部屋に戻って行った。あたしは誤解を解きたくて部屋のドアに手をかけた。けど駄目。ただ口元が歪むばかりの今の表情じゃ、お兄ちゃんの前に出られない。こんな大事な時に笑顔のひとつも作ってあげられないあたしは、なんて子供なんだろう。

  それからしばらくお兄ちゃんは、朝は補習授業、夕方はバイト、夜は自室で勉強という具合で、同じ家にいるのに殆ど顔を合わせない日が続いた。独りでいる間、お兄ちゃんに何かしてあげられないかずっと考えてたけど、結局静かに邪魔しないでいる事と、月並みにお守りを贈るくらいの事しか考え付かなかった。
  だけど、あれからしばらく話してなかったせいで気後れしてしまって、渡すことが出来ずに試験当日になってしまった。あたしは早起きして、お兄ちゃんが寝ている間にこっそり渡す事に決めた。

 お兄ちゃんの部屋に入るのも久し振りだ。あたしは用意したお守りを枕元に置こうと伸ばしかけた手を止めて、お兄ちゃんの顔を覗き込んだ。
 何だか疲れてるみたい。昨晩は本番前だからと、いつもより早く寝ていたみたいだけど……。長い間見ることの無かったお兄ちゃんの寝顔は、物置の隅に追いやられたマネキンのように生気が感じられなかった。
 気になって顔を近づけると、お兄ちゃんの片眉がかすかに動いた。いけない。息がかかった? 起こしちゃったかも。咄嗟に顔を上げようとしたあたしの巻毛がお兄ちゃんの額にかかる。

  あ、と思った時にはお兄ちゃんの腕があたしの背中に廻っていて、頬と頬がぶつかった。
  瞬間吸い込んでしまったお兄ちゃんの匂いで頭がくらくらする。痛いほど強い力。――呼吸。呼吸ってどうやるんだっけ? 精神と肉体が離れちゃったみたいに、身体が全然動かない。それなのに感覚だけは鋭敏で――……ああ、真冬にしては薄いパジャマの肌触りと、その向こう側にある硬い筋肉の質感。細長い見た目からは想像できない厚みのある胸板は、大きく上下して荒い息を生みだし、あたしの長い巻き毛を揺らす。あたしより少し熱めのお兄ちゃんの体温からひんやりと感じる、これは汗? それとも私の顔が火照っているせい? 耳元でお兄ちゃんが何か呟いたけど、耳に流れる血流の音が煩くて良く聞き取れない。

  しばらく、数秒、ほんの一瞬かもしれない。覚醒したお兄ちゃんにあたしは思い切り突き飛ばされた。長い腕が伸びる分だけ離される身体と大きく開かれていく瞳。指の先から伝わる熱で、胸に鋭い痛みが走った。
  何か思うより先に、部屋を飛び出してしまった。いけない、今日は受験の日なのに。早く戻って謝らないといけないのに。受験頑張ってねって笑顔で送り出してあげないといけないのに。あんな表情のお兄ちゃんは始めて見た。あの表情は――
  あの表情は私が傷ついた事に傷ついた顔だ。違うのに。そんなんじゃないのに。

  いつまで経っても笑えない。あたしは駄目な妹だ。渡しそびれたお守りを握り締めて、主のいなくなった部屋で幼い日の事を思い出す。もう近所の野良犬もクラスの悪ガキもいないのに、あたしは何を泣いているんだろう。朝のお兄ちゃんの表情が、焼印となってあたしの胸にいつまでもじりじりと焦げた匂いを放っている。




  その年、お兄ちゃんは受験に失敗した。

>『2月』第4章

小説『2月』 第2章


『2月』第1章<


 私が部長と出会ったのは、入学して初めての雨の日でした。

 元々人見知りの性格が災いし早々にクラスの友人作りに失敗した私は、昼休みはもっぱら屋上で空を見上げながら読書をして過ごしていました。一人で過ごすことも本を読むことも嫌いではありませんし、窓枠に切り取られることの無い景色を独り占めできる優越感が、益々私を教室から遠ざけていたのです。
  しかし、流石の私も雨に打たれながら昼食を摂る気にはなれません。かといって今から教室に戻っても浮くだけだろうし……

少し考えれば簡単に予測できた事態に溜息をついて、私は屋上から続く階段の踊り場に腰を下ろしました。
  もういっそ、ここで食べてしまおうかな。階段の下は特別教室が続くばかりで人が来るとは考えにくいし、壁をすり抜け微かに反響しあう雨音に包まれて読書をするのも悪くないかもしれない――。そう思い直してお弁当の包みを広げていると、右耳にがらりと大きな音が響いて、足元に長身の男の人が現れました。
  白衣を着ていたので咄嗟に先生だと思いました。ひどく慌てた様子だったし、私もこんな所でお弁当を広げている恥ずかしさがあって、すぐに立ち上がって横に避けたのですが、男性は2.3歩登りかけた階段をまた引き返して、すみませんがちょっと手伝って貰えませんかと、丁寧に私に頼んできました。

  屋上に上がると普段は見かけない箱が5.6箱置いてありました。近づいてよく見るとそれは水槽で、中には大きな…………蛙が入っていました。
  好きとか嫌いとか以前に、こんなに大きな蛙なんて見た事がありません。硬直してしまった私に気付いた男性は深々と頭を下げ、私を生物室へ招き入れると、濡れてしまった私の為にタオルと紅茶を出してくれました。

  結局全ての水槽を自分で運び終えた男性は、改めて私に謝ってきました。今日の実験で使う蛙に、せめて最期の雨を感じさせてやりたかったのだそうです。しかし思ったよりも雨足が強くなったので、水槽内で溺れる前に慌運び込もうとしたところへ私が居合わせた、という話でした。
  普通の女性は蛙は苦手ですよね、と更に恐縮されて居心地が悪くなった私は、こちらこそ先生のお役に立てずに申し訳ありません、とカップを置いて頭を下げました。
  顔を上げると、男性はきょとんとこちらを見つめています。それはそうでしょう。彼は先生ではなく生物部の部長なのですから。
  改めて自己紹介をし合うと部長はくすくす笑って、自分も私を先輩だと思っていたからおあいこだと告白されました。確かに入学早々あんなところでお弁当を広げようだなんて普通の1年生は思わないし、同級生なら大抵の生徒の顔は見知っているのでしょう。無駄に緊張しちゃったよ、と話す素振りには抜けきらない少年らしさが残っていて、先生と誤解するなんて失礼だったかと心の中で密かに謝りながら一緒に笑いました。

  笑ったら室内を伺う余裕も出てきました。そういえばこの学校の生物室に入ったのは今日が初めてです。入った時には気付きませんでしたが、この教室は私が記憶している一般的な生物室とは違った柔らかい雰囲気がします。最初はお茶のせいかと思ったのですが、よく見ると窓際にはプランターが並んでいるし、壁には蝶や花の写真がたくさん飾られていました。(勿論馴染みの気味悪いあれこれもありましたが)
  その一番奥に、一回り小さいのですが写真ではなく絵が飾られていました。小さな蝶の群れが水面にたくさん浮かんでいる絵。その羽は綺麗な薄水色で、まるで水面から産まれ出たように見えました。そう話すと部長は、君にはそう見えるんだ、とまたくすくす笑い出しました。
  今日は久々に笑ったせいでしょうか。さっき会ったばかりの人に心を開き過ぎてしまいました。それでなくても独りあんな場所で本を片手に弁当を広げていたのです。きっと夢見がちな変わり者に見えたに違いありません。後悔と恥ずかしさで血液が逆流するのが分かります。私は揃えた両膝にかかったスカートの端をぎゅっと握って、体が震えるのを悟られないように視線を逸らすと、口を硬く結びました。

  


       妹が好きな蝶なんだ。 
  


  そう言った部長の表情を見ることは出来ませんでしたが、きっと目を細めていたに違いありません。だって部長が妹さんの話をする時はいつもそうやって微笑っているから。だから描いたんだ、と照れもなく話す部長に毒気を抜かれ、私はこの人をもっと知りたいと思うようになったのです。
  


  
  失礼します、と静かにドアから入って来たセーラー服に、私は息を呑みました。
  150センチに満たない華奢な身体。栗色でふわふわのゆるい巻毛を腰まで垂らして、ほんのり紅く染まった丸顔に似合う薔薇色の唇と長い睫毛……。長身・面長で髪も瞳も真っ黒な、凛とした雰囲気のする部長とは似ても似つきません。それでいて彼の左に納まったさまは1枚の絵のようにしっくりきて、部長から前もって聞いていなければ、私は確実に彼女を『彼女』だと誤解していた事でしょう。
  しかし、席についた妹さんは終始悲しそう、というか心ここにあらずと言った感じで、しきりに胸元のタイを弄んでいました。一体何があったのでしょうか。 笑ったらきっと、もっと可愛いと思うのに……
  それでもカモミールティには口を付けてくれたので、ほっとして何か他の話題はないかと目を泳がせていると、部長が彼女に自分で作成したレポートを見せました。
  壁や机に飾った一般向けの展示物と違って、それは大会用の専門的なデータだったのですが、彼女は眉間に皺を寄せて、必死に目を走らせていました。私にはその姿が字面をひとつも溢すまいとして眉間で脳を押さえているように見えて、思わず微笑ってしまいました。ふと見れば隣に座った部長も目を細めています。案外意地が悪いところもあるんだな、と思いつつも彼女のひたむきさが可愛らしく、私は止める気になれませんでした。
  
  そのまま1時間は格闘していたでしょうか。妹さんはやっと顔を上げ、すっかり凝り固まった眉間のあたりを白い指先で何度か撫でました。
  頑張った妹さんに何かしてあげたくなって、新しい紅茶を入れようと私が席を立ちかけたその時、
 「ああ」
  突然指差した彼女の視線の先には、例の蝶の絵が飾られていました。丁度私が座っていたせいで彼女からは死角になっていたようです。ねぇ、知ってる? と彼女は私に視線を合わせました。
 「あの蝶ってね、蝶になりたてのころは白い羽をしているの。皆で海を渡るうちに、空や海の色素を取り込んで羽の色が変わるのよ。波に止まれば瑠璃色に輝くし、夜は星屑色に光るんだって。だからいくら捕まえても海で見たような色にはならないの」
  お兄ちゃんが言ったの。と、突拍子も無い御伽噺に呆けている私の耳元に更に爆弾を投下した妹さんは
「結構、乙女チックでしょ?」
と、目を細めて微笑ったのでした。
   

  


  結局、その日彼女の笑った顔が見れたのはそれ1回きりでした。考えてみれば、ハーブのプランターも花の写真も蝶の絵も、全て部長が揃えたものです。でも私には、それら『乙女チック』な品々と部長の姿がどうしても上手く結びつきませんでした。唯一しっくり感じたのは、あの時左下にあった栗色の――

  卒業していく部長(今は元・部長ですが)の私物を纏めていたら何となくそれを確かめたくなって、贈るつもりの無かったチョコを渡す事にしました。街の乙女チック満載の雰囲気にあてられたのかもしれません。お店を廻って、1番可愛らしい雰囲気のチョコレートを白いレースとピンクのリボンで包んで、ついでにガーベラまで添えて。私の思いつく限りの乙女心を詰め込んだつもりでした。
  既に自由登校になっている部長を生物室に呼び出して、彼の集めた『乙女チック』と共に手渡すと、困ったように眉根を寄せて、君はもう知っていると思ったけどと言いながら、チョコだけを私の前に返してきました。
  それではこれは私の可愛いライバルに渡してくださいと渡し返すと、彼は一瞬目を大きく開いた後、そうだね、きっと喜ぶよと、いつものように目を細めました。その笑顔が余りに予想通りだったので、何だか嬉しくなって一緒に笑いました。笑いながら泣きました。

>『2月』第3章 

小説『2月』 第1章

 そもそもあたしにとって兄弟というものは仲が良いのが当たり前だったし、現にあたしとお兄ちゃんは誰から見ても仲の良い兄妹だった。
 頭が良くて優しくて、いつも図鑑や難しい本をスラスラと読んでいたお兄ちゃん。あたしはと言えば、鈍くさくて泣き虫で、何も無いところで転んでは大泣きする近所でも評判のおみそ。
 そんなあたしの手を引いて、海をわたる蝶の羽の色や、ユニコーンの角で作った薬の効き目なんかの話を泣き止むまでしてくれた。お兄ちゃんがいれば近所の野良犬もクラスの悪ガキも怖くなかった。1つしか違わないなんて、ううん、同じ血を分けた兄妹とはとても思えない。あたしにとってお兄ちゃんは、ずっと憧れだったし理想だったのだ。

 だから高校受験だってすごーく頑張った。全ての受験生にとって学校なんて灰色だろうけど、あたしにとって、お兄ちゃんがいない中学生活はむしろ真っ黒だった。早く卒業してお兄ちゃんと一緒の校舎を歩きたい。何よりお兄ちゃんに釣り合う妹になりたかった。
 だけど、お兄ちゃんがランクを落として入った高校の特待推薦基準にあたしは届かなかった。
 あれからあたしも大きくなって、近所の野良犬もクラスの悪ガキも怖くなくなった。そうして段々、お兄ちゃんに手を引いてもらう事もなくなった。だから、自分では成長したつもりだったのに……。あたしが大きくなった分、お兄ちゃんだって大きくなる。いつも隣にあった筈のお兄ちゃんの瞳は、今では相当上を見なければ探せない。
 何でいつまで経っても鈍くさいのは変わらないんだろう、と落ち込んだけど、その高校の近所の女子高になんとか滑り込む事が出来た。これでお兄ちゃんと一緒にもう2年は歩く事が出来る。行き帰りの間のわずかな時間だけど、同じ家を出て同じ家に帰って来れるのは密かな自慢だった。頭の上から降り注ぐ低音は耳に心地良かったし、柔らかく紡がれる言葉にいつもあたしはわくわくした。


  とてもとても幸せだったから忘れていたのだ。お兄ちゃんが理想の兄だと言うことを。

  お兄ちゃんは、高校の文化祭にあたしを招待してくれた。お兄ちゃんのクラスは、特待推薦コースということもあって文化祭への熱意は低く、参加もしていない。部活で研究発表をやる程度だから、その会場で待ち合わせて一緒に見て廻らないかと言う話だった。あたしがお兄ちゃんの誘いを断る訳が無い。それにお兄ちゃんと同じ校舎を歩く事ができる。
  前日は興奮して眠れなかった。それが災いの元だったと思う。うっかり制服を着て行ってしまったのだ。文化祭なので近所に建っているあたしの学校の生徒もたくさん来てるから、制服姿のあたしが悪目立ちすることはない。だけどお兄ちゃんの高校は私服なのだ。折角一緒の校舎を歩けるというのに、これではいつもと変わらない他校の生徒のままだ。窓に映る臙脂色のタイにため息をついて、あたしは生物室のドアを開けた。

  小さな頃から虫や動物が好きなお兄ちゃんは、生物部に所属している。生物室ってひんやりして薬品臭くて、あたしはあんまり好きじゃない。でもこの部屋に飾られた展示物やレポートの数々からは、この部屋には似つかわしくないあったかくて優しい色が見える。それから何か穏やかな香り……
 「せっかくたくさんの方に見ていただける機会だから、親しみやすい題材がいいだろうって、部長――あ、お兄さんが。それで今年はハーブの研究にしたんです」
  そう言いつつカモミールティを出してくれた娘を見て気付いてしまった。彼女はこの学校のあたしだ。違うのはお兄ちゃんと血が繋がっていない事。
 ずっとそばにいたのに。ずっと努力していたのに。ほんのちょっとの間、平日の数時間を一緒に過ごしていたくらいで、お兄ちゃんを知った気にならないでよ。ずっとそれが当たり前だったみたいに、簡単にお兄ちゃんの隣に立たないでよ。お兄ちゃんの学園生活にちょっと関わっていただけのあなたが、お兄ちゃんについて私に語らないで! あの時受かってさえいたら、そこにいたのはあなたじゃなくてあたしなんだから! 絶対に!
 ちょっと頭が良かったからって、ちょっと他人だったからって、世界中から認められたみたいな顔してお兄ちゃんと笑いあったりしないで!!!!

  ああ、今日はお兄ちゃんと文化祭を満喫するつもりだったのに。廊下を歩く度に揺れる臙脂色のタイ。髪に残ったカモミールの香り。理解できなかったレポートの中身。さわさわと響く人のざわめき。全てにいらいらして、降り注いでいた筈の低音もあたしの耳には届かなかった。



  結局あたしは自分に負けているのかもしれない。だってあの娘はお兄ちゃんと同じ学校に行って、研究内容も理解して、美味しいお茶も淹れられる。でも好きと言う気持ちは、一緒にいたいと言う気持ちだけは負けたくない。妹だけど。ううん、妹だからこそ。

  その年のバレンタイン、生まれて始めてチョコを作った。料理が苦手というのもあるけど、お兄ちゃんへチョコを渡すという行為が恥ずかしくて出来なかったのだ。家族への義理チョコぐらいで何が恥ずかしいの? と友人には笑われたが、今ならその理由も分かる。

  一晩かかって得た収穫は、チョコレートはただ湯せんにかけるだけでは駄目だと言う事だった。どうしてもチョコにむらが出来る。最初の板チョコと同じ綺麗なこげ茶色にならない。チョコを綺麗に溶かすには、微妙な温度調節が重要で、恥ずかしいことに、あたしはそれをお兄ちゃんから教わった。
  いよいよ好きな人が出来たのかと聞かれたのが悔しくて、何度目かの溶かしかけのチョコを無理矢理口に突っ込んでやった。乱暴な渡し方だなぁ、とお兄ちゃんは笑って食べて、その後、来年はもういらないからと言われた。
  そんなに不味かったなら残して良かったのに。いつまで経っても直らない自分の不器用さ加減に、情けなくなって下を向いた。
「そうじゃなくて――」
お兄ちゃんの指が頬を掠める。


       妹から貰うのは哀しいんだよ。


  部屋に充満したチョコの匂いで、低音が耳元に降りてくるのに気付かなかった。きっとあたしの体中にも、お兄ちゃんの舌と同じ匂いがしているのだろう。

>『2月』第2章


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「まえぜん」とは、"まえがたつからぜんりつせん"の略。
オリジナル創作小説の個人サークルです。
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